フランケンが生んだ文筆家リュッケルト

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ドイツ、フランケン地方が生んだ詩人、文筆家、翻訳家に、この地方の北部の街、シュヴァインフェルト生まれのフリードリヒ・リュッケルト(1788-1866)がいます。ドイツリートを知る人にはおなじみの詩人です。例えば、シューマンの「献呈」もリュッケルトの詩による歌曲です。

リュッケルトが公の職に度々就きながらも、そのたびにフリーの身に転じて、創作活動に邁進した生き様と、時が止まったような風情をたたえるこの地方の出身であることが、私には妙に納得がいくのでした。彼は生涯この地方に愛着を持ち、仕事でシュトゥットガルトやベルリンに暮らしたものの、結局はこの地に戻ってきました。

その間、リュッケルトは1826年(38歳)からの15年間を、東方言語・文学の分野の教授として招聘されたエアランゲンの街で過ごしました。ここもフランケン地方に属する街です。この地でリュッケルト1832年から1834年の2年の間に、猩紅熱などにより3人の子供を立て続けに亡くしました。このリュッケルトの実体験から一連の詩「亡き子をしのぶ歌」が執筆されました。これらの詩のうちの5つは、後にマーラーによって「亡き子をしのぶ歌」全5曲として作曲され、世に広く知られるところとなっています。

エアランゲンを私は、留学中、ドイツ人の中にポツリと混ざって参加することになったバッハ、ヨハネ受難曲の稽古及び公演で訪れました。合唱かと思っていたら、合唱もソロも両方歌うことになり(そのような演奏形態はバッハの時代に実際にあったと言われている)、しかも演出がついていたので、全曲暗譜という、忘れもしない、バッハづけの日々となった企画でした。バッハの大好きな私にとっては、神様からの贈り物のような経験でした。

11月初旬なのに、昼間の気温が1度という寒さの中、手袋を購入して暖かにしつつ、街や庭園を散策したときのことを思い出します。こんな写真のような風景を、リュッケルトも見ていたかもしれません。