雲間のお月さま~夢のあとに~

イメージ 1今年は今日9月24日(月・祝)が中秋の名月とのこと。雲が多めの今日はこんな写真が撮れそうな気がしてソワソワと何度も玄関の扉を開けて外に出て空を見上げていました。

そして、この雲間に現れた光明の世界!今、歌っているフォーレの<夢のあとにAprès un rêve>の歌詞に「天は私達(夢で再会し、大地を離れた恋人と自分)のために雲間を開いてくれた。未だ見たこともない輝き、垣間見えた神々しい閃光。」という文句が出てくるのです。その直後、夢から覚めてしまう・・・ この曲の元の詩はトスカーナの詩による、とあり、原詩も見られますが、フォーレが作曲したフランス語訳詩は、トスカーナの原詩以上にダンテの『神曲』のベアトリーチェとの天国編を思わせるように作られている気がします。大地を離れて天上に近づいて見たら、もっともっと輝いて見えるのでしょうか・・・ これを歌ってこの主人公の見た夢を見ている間はともかくとして、普段の私はひとまずまだ大地でいいかなあ・・・お月様見守って下さい・・・♡

詩人メーリケのお墓のことから

シュヴァーベン地方が生んだ歴史的な文学者に数えられるメーリケ。牧師であり、詩人であり、小説も書いた。ドイツリートにはヴォルフのメーリケ歌曲集もさることながら、それよりも先の時代、例えばシューマンにもメーリケの詩による名作が点在する。

次回のリサイタルのプログラムに、この詩人にこだわったわけではなくて、詩の内容、曲の性質から組み入れることにした1曲が、この詩人の詩によるもので、改めて詩人メーリケについて思い巡らせ、資料を読んだりしていて気がついたことには、彼の墓所のある場所を私は留学中、音大とアパートとの往復の路面電車でいつも通っていた、ということだ。

そういえばリートのクラスの先生も、彼の墓はシュトゥットガルトのその墓地にあることを時々、レッスンで話題にしていたような記憶も蘇ってくる。その墓所はPragfriedhofというシュトゥットガルトの中央駅から15番の路面電車で1駅目の所だ。女性の声による車内アナウンスのイントネーションでも私の記憶に刻まれている。

この歴史ある古い墓地の近くにはユダヤ人街のようなところもあって、この墓地にもイスラエル人用の区画もあることを今回、ドイツ語のネットの情報を見ていて再認識した。路面電車がそのあたりを通ると、他では目にしない細かいレンガ造りの外壁を持つ建物がたち並び、異国風な景色となり、エキゾティックな感じで、乗り降りする人の雰囲気からも外国人の地区であることは明らかだった。一方、この墓地の一般の区画のほうには、宗教を問わない、と説明書きがある。芸大時代、それも学生ではなく勤めていた時になってようやく時々、自ら通るようになった谷中霊園も宗教を問わない墓地であるのと一緒だ、と思ったりする。(寛永寺墓地は別)。

メーリケの墓所はこの停留所至近の入り口から入ってほどない所にあることがわかる。つぎにシュトゥットガルトに行くことがあったら是非、訪れてみたい、という気持ちにようやくなっている。

ようやく、というのも、お墓を訪れる、というのは、たとえば音楽の都ウィーンで、楽聖たちのお墓が一堂に会するような場合とか、ベートーヴェンの生地で、ベートーヴェンの母の墓もある墓地内のシューマンのお墓とか、音楽家ゆかりの土地で観光名所になっているような、いわば明るいイメージのところは行きやすいけれども、留学して住んだ街で、毎日通る、暗いイメージの古い墓地となると、身近にありすぎて、お墓、というものがリアルに感じられすぎて、若い(今から思えば・笑・)学生時分には、上野谷中でもドイツでも、私にはそう積極的に行きたいとは思えない感じだった。

ちなみにメーリケが生まれたのは、以前にこのブログにも紹介しているが、シュトゥットガルト郊外のルートヴィヒスブルクというお城のある街で、そこにはクリスマス市もあり、留学当初、雪景色の中訪れた思い出がある。そのときは生地を訪れただけで、とてもはしゃいだ気分だったので、お墓のほうには気持ちが向かなかったのも仕方のないことだったかもしれない。

墓所Pagfriedhofには考えてみたら他にも思い出があった。留学当初、参加したバッハアカデミーの講習会で、アルトのソリストのクラスに選ばれ、バッハ週間で次々と街の教会を巡って交代で歌わせてもらった中に、このPragfriedhofの近くの聖ゲオルグ教会St. Georg Kircheがあったのだ。今、久しぶりにシュトゥットガルトの街の地図を広げていて気がついた。コンサートが終わって、指揮、解説の当日のトーマスカントル様やバッハアカデミーの有名なRさんと記念撮影もして頂いて、聴いて下さっていた見知らぬドイツのお客様達からも温かくお声をかけて頂いて、すっかり幸せな気分で家路につくときは一人になり、先の駅とは直角に交わる別な通りを通る同じ墓所沿いの地上U-Bahnの停留所で電車が来るのを待っていたときの夜の景色、空気の温度感などが今でも肌に触れるように思い出される。

旅でも演奏会でも多分飲み会その他の会合でも、終わって最後に家に帰るときは一人、というのがさびしがりやの私にすると、いつも何かとてもせつない気持ちになる。そもそも人生とはそういうものなのだろうか。これは一人で住んでいた留学中だけではなくて、誰かしら同居の家族がいる日本でもよく感じる感覚だ・・・。

ノーベル文学賞とフォーレの歌曲

イメージ 1次回リサイタルのプログラムをシューマンフォーレシューベルトの歌曲で組もうと思い、選曲がほぼ整ってきたところ。選曲の過程で候補曲を挙げながら、各曲の詩人についてもどんな人だったのだろう、と知りたくなるのも常なることです。

昨日はフォーレ(1845-1924)の歌曲<河のほとりで Au bord de l'eau>について調べてみました。今回のプログラムには入れないかもしれませんが、この曲は私の学生時代からの愛唱歌。無常観にも似たようなはかない感じがとても好き。でも内容は、二人の愛は永遠に変わらない、という静かな中にもとっても熱い愛を感じさせてくれる歌。

さて、この詩の作者はシュリ・プリュドムという人なのですが、フォーレが他に作曲しているヴィクトル・ユゴーヴェルレーヌといった人たちほどには有名ではないと思います。改めてこのシュリ・プリュドムさんはどんな人だったのだろう、と調べてみました。すると・・・、何と栄えある?!第一回ノーベル文学賞の受賞者ではありませんか!そういえば学生時代に授業で耳にしたような記憶もかすかに蘇ってきますが、すっかり忘れていました。

昨今、シンガーソングライター、ボブ・ディラン氏の受章で話題になったノーベル文学賞。今年は関係者のスキャンダル報道により体制が整わないとかで、文学賞の授与は行わず、来年2019年に2年分の受賞者を発表するそうで、すっかり時事的話題になっています。

このノーベル文学賞の第一回受賞者がこのフォーレの歌曲の作詞者であるとは!!!、と何でも感動してしまうのが、私の傾向のようで、このブログもそんな発想から、ドイツ留学の思い出が一通り終わっても、その後の「気づき」今まで綴り続けています。

その第一回ノーベル文学賞にはトルストイが最有力視されていたそうですが、トルストイの作品には政治的なメッセージともとれる傾向が強すぎて相応しくない、となり、それでは誰に?というとき、アカデミー・フランセーズの推薦だったこのプリュドム氏が受章することになったようです。

さて、フォーレが作曲したこのプリュドムさんの詩の内容は・・・

二人きりで河辺に座り、流れゆく河、移りゆく雲、家々の煙突の煙を眺め、花の香りを感じ、水音を聞く・・・(そして後半がよいのです!)・・・二人は愛の情熱を慈しみあうことに注ぎ、この世のしがらみには憂いも感じることもなく、過ぎゆく万物を前に、愛は過ぎ去ることはない・・・、とまあこんな感じ。ロマンチック♡♡♡

ところで、このプリュドムさんは生涯、独り身だったとかで、ノーベル賞の賞金も自分には大金は必要ないと、文学協会か何かの設立のために使ったのだそうです。どんな人だったのかとてもミステリアス・・・もっと深く知るにはこの方の著作をじっくりと読まないといけませんね。

ちなみにプリュドム氏の第一回ノーベル文学賞受賞は1901年のこと。フォーレの彼の詩による歌曲は1875年の作曲。30才のフォーレの先見の明?! 26年後に第一回ノーベル文学賞の栄えある受賞者となる人の詩に作曲していたのでした。



ショパンとシュトゥットガルト

私が留学していたシュトゥットガルトには、ドンピシャリこの街が出身、という歴史的作曲家はいなかったと思うが、それでも時に作曲家の人生の節目にこの街の名が記録されていることがある。

1864年、借金から逃れる旅の途上でシュトゥットガルトに滞在していたワーグナーは、宿にバイエルン国王ルートヴィヒ二世からの招聘を伝える使者のミュンヘンからの訪問を受け、以後ミュンヘンに赴き、バイロイト建設に向け、擁護された華々しい活動が始まった。

それよりも30年すこし前の1831年9月には、ショパンシュトゥットガルト滞在中に故郷ワルシャワの陥落を知った。これは前年の1830年のパリ7月革命の影響を受けて、ポーランドでも独立の機運が高まり、1831年4月30日にポーランドが独立を宣言するも、ロシア軍が9月にワルシャワを制圧するに至ったものであった。1830年ワルシャワでデビューリサイタルを行ったショパンは、1831年にウィーンに滞在中、パリ行きを決めて、ザルツブルクミュンヘンシュトゥットガルトを経由してパリに向かうところだった。

パリに到着した後のショパンは、シューマンの有名な新聞批評「諸君、脱帽せよ、天才だ」を受け、世に紹介されることとなる。この批評はこの年(1831年)の9月27日にシューマンが送付し、12月にベルリンの『一般音楽新聞 Allgemeine Musikalische Zeitung』に掲載発表されたものである。批評された作品は、ウィーンで演奏された後、ハスリンガーにより出版の運びとなった、モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の二重唱からの《変奏曲》op.2だった。

シューマンショパン1810年生まれの同い年(ショパンには1809年説もある)で、この批評を書いたときのシューマンはクラーラの父ウィークのもとでピアニストをまだ目指していた時期にあった。シューマンが指の故障によりピアニストへの道を諦めるのは翌1832年、自らの新音楽時報を創刊するのは1834年になってからのことである。

まだピアニストとしてのアイデンティティもあったごく若い時期のシューマンが、このようにショパンの作品を批評していることは注目に値する。同世代の、自作を作曲して演奏するピアニスト、としての姿に、大いに親近感も生い抱いたのではないだろうか。シューマンピアノ曲作曲の皮切りともいえる《アベック変奏曲》を1830年に、《蝶々(パピヨン)》を1830年1831年に作曲している。

そのシューマンの足跡にも、実はささやかながらシュトゥットガルトが登場する。若き日、ヴィークにピアノを本格的に師事するより前、ライプツィヒ大学の法科を経て、ティボー教授の音楽サークルに憧れてハイデルベルク大の法科に移った年の夏休みに、スイスと北イタリアへ旅行した帰途、シュトゥットガルトを経由してハイデルベルクに戻ったのだった。

ちなみに先のワーグナーも1813年生まれで、ショパンシューマンより3つだけ若い同世代人であった。シューマン1840年以来、新婚時代の充実した音楽生活を送ったライプツィヒワーグナーの出生地であったし、ワーグナーが1848年に暴動に参加することになったドレスデンは、1836年夏、ショパンワルシャワで既に知っていたヴォジンスカ家のマリアという少女に改めて恋をした街でもあった。その後、二人は結婚の約束をするまでになるが、ショパンの喀血するほどの病気のうわさは広まり、このためもあってか彼女との婚約は破棄され、パリで失意にくれたショパンはやがて運命の女性ジョルジュ・サンドとその生を共にすることになる。

現代のコンサートのプログラムに今でも名を連ねる作曲家たちが、共通の街に行き交うように生きていた時代が大いに偲ばれる。

ホトトギスの花言葉

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昨年、家の庭に突然ニョキッと姿を現した、私には非常にグロテスクに見えた、思えたこの花。こんなに立体的な花を見たことがないと思ったような・・・
 
鳥がいろいろな植物の種を落として行くようで、自家で植えた覚えのないものがひょっこり出てくることはよくあるけれど、これは初めてのものだった。昨年10月のこと。
 
ツイッターでこの花は何でしょう?とか、この虫は何でしょう?と呟くと、直接は面識はないけれどフォロワーになって下さっているどこかのどなたかがツイートに返信して、教えて下さることが今までにもあったけれど、このツイートにはお返事が来なかった・・・
 
つい二日前、そうだ!と思ってそれをフェイスブックにリンクして載せたら、知人が即座に、この花はホトトギスです、と教えてくれた。な~んだ、最初から、例外以外は基本的に直接のお知り合いの方とつながっているフェイスブックに投稿すればよかった、などとも思った(笑)。
 
それはそうと、ネット上でこの花について調べていると、いろいろわかることがあって面白かった。まず、なぜこの花をホトトギスというのか、について。それは鳥のホトトギスの胸の模様に紫の斑点が似ているから、というもの。特許許可局(トッキョキョカキョク)という、もしこれを早口で言おうとしたら、アナウンサーの訓練言葉みたいになりそうな鳴き方でなく鳥のホトトギスは私も知っている。朝には晴れやかに、夜には暗い気分のような音調で「トッキョキョカキョク!」の響きが聞こえてくるのを日常、耳にすることもある。でもこの花がいきなりニョキッと姿を現したときの異様な雰囲気には本当に驚いた。これが花のホトトギスだったとは・・・
 
そして花といえば花言葉!これを調べてみると、何やらとってもロマンチックなことが書いてありました。「永遠にあなたのもの」だそうです。いいですね~♡♡♡ そこに書いてあった理由は、長い間咲き続けるから、とのことですが、それ以上にこの花にはすごいアピール力を感じた私でした。
 

ドヴォルザークの《ジプシーの歌》

ドヴォルザークの《ジプシーの歌》op.55(全7曲)は独唱用のみならず、合唱用の編曲もあり親しまれている。また第4曲は〈母の教え給いし歌〉の題名で日本でも昔から名歌集などに取り入れられ、よく歌われている。
 
ところで、この曲集の第5曲〈弦を正しく調弦せよ〉の第2節の歌詞に、突然「ナイルの岸辺」という言葉が出てきて、どうしてなのだろう?、と思っていた時期があった。ジプシーのルーツにはいろいろな説があるから、ドヴォルザークが取り上げたチェコの詩人によるものであっても、東欧のジプシーには限らないのかな、などと思っていたが、ある本のジプシーについての解説を読んでいて、このことがようやく腑に落ちた。
 
それによると、現在では、ジプシーの起源はインド北西部のパンジャブ州であり、そこから西に進んでいったと考えられている。だが、18世紀頃まではジプシーの起源はエジプトであると思われていて、「ジプシー」の名自体も「エジプトの、エジプト人」を意味する"Egyptian"に由来するのだそうだ。なるほと、と思った。だから、この詩の中にも、まだその考え方の名残が残っていて、彼らのホームグラウンドとしてのエジプトの「ナイルの岸辺、も出てくるわけだ。
 
ジプシーは他に、ツィガーヌ(「不可触民」の意味)、ボヘミアン(「ボヘミア人」の意味)等と呼ばれ、この歌曲集の題名にもあるドイツ語で言う"Zigeuner"はこの前者から来ているのだろう、と容易く想像できる。ジプシーも含め、これらの呼び方はいわゆる差別用語の要素を含むと判断され、現在は使用を避け、彼らの言語ロマニー語で「人間」を意味する彼ら自称の「ロマ」や「ロム」で呼ぶことが多いということが解説されていた。
 
そういえば、ナイルの岸辺というと、この歌とは全く関係がないが、ナイル川下りでイルカを見て楽しんだ、といって意気投合しておられるお二方の対談に同席したことがある。ジプシーの故郷というイメージから、現代ではイルカの泳ぐ川、と時代が変わるといろいろにイメージも変わるようだ・・・。
 
 

スペイン巡礼とオーヴェルニュ地方

いつか歩いてみたいと思う、スペインのサンティアゴ・デ・コンポステーラを目指す巡礼の旅のルート。殉教したキリストの12使徒の一人、ヤコブの遺体がこの地で発見され、その上に大聖堂が建てられたところから、ここが聖地として巡礼者が目指す地となった。

そして、目下、演奏会に向け、取り組んでいるカントルーブ作曲の《オーヴェルニュの歌》。

図書館で旅行書の棚の前に立ったとき、なぜか、スペイン巡礼の写真集とフランスのガイドブックのオーベルニュ地方のページを両方手に取った私。

巡礼のルートの地図の出発点にはフランスからのルートが4つ。その中の一つはちょうどオーヴェルニュ地方のあたりを指している!早速よく読んでみれば、間違いなくオーヴェルニュ地方の街ル・ピュイ・アン・ヴレイにある大聖堂が中世以来のこの巡礼の出発点となっているとわかる。

以前はたくさんカタカナがあって、あまり気にとめていなかったこのル・ピュイ・アン・ヴレイというオーヴェルニュ地方の街が急に身近に感じられるようになってきた。