ついにオック語にチャレンジ!

カントループの≪オーヴェルニュの歌≫という曲集がある。南仏オーベルニュ地方の民謡にカントループがオーケストレーションをしたもので、のどかな風景が彷彿とされるような美しい民謡の旋律に癒やされるような曲集だ。

学生時代にイタリア人の先生の門下生に一時なったことがあって、そのときにこの曲集から何曲かをその先生のお勧めで勉強したことがあった。そのときは、この曲集の歌詞の言語であるラングドック、つまりオック語はわからない、ということで、併記してあるフランス語で歌えばよいじゃないの、ということで、フランス語で歌ってレッスンを受けた。

その後、折に触れ、この曲集の楽譜を引っ張り出してきては歌ってみたり、ということもあって現在に至る。
この夏、改めてこの曲集の楽譜に向き合い、そうだ、オック語をいよいよ勉強すればよいではないか!と思い立ち、インターネットでオック語関連の辞書や文献がないのかを検索していると、アマゾンでも買えるような文法書があることを発見、中古のもので早速購入し、数日前に手元に届いたところだ。

さっそく前書きから紐解いてみると、すでにその段階で、この本で扱われているオック語トゥールーズを中心とする地域で話されているオック語であり、北部のオーヴェルニュやその他さまざまな地方のオック語とはまた異なるものであることが明記されていてちょっとがっかりする。なかなかオーヴェルニュのオック語にどんぴしゃり出会える本は日本語で書かれたものにはなかなかなさそうである。でもこの本には標準的なオック語の文法がまとめられており、これを知っていれば相互の方言程度の違いは容易に想像がつきそうなことも書いてあり、気持ちを持ち直す。なかなか奥の深そうな世界だ。フランスでは第二外国語としてオック語も選択肢にある、というのも興味深いことである。

さらにインターネットでオーヴェルニュ地方のことなど調べていると、この地方での言語ラングドックを話した有名人としては、この地域に生まれた、かの昆虫記で有名なファーブルがいることがわかった。今日、たまたま近所の図書館に行くと、夏休みということで子供向けなのか、分厚いファーブル昆虫記の下巻がたまたま表に出ていて、思わず手にとってしまった。

私の南仏への心の旅がこれから始まりそうな予感がする。



今年の薔薇☆美しい5月に

今年もイメージ 1薔薇のご報告をしたいと思います。

5月に撮影し、まだ掲載していなかった写真です。

まずは5月12日撮影のこの一枚。
見事なデュオで咲いてくれました。
咲き出す時期が違ったので、
花の咲き具合に差が出ているのがわかります。






イメージ 2そして、その2日後の写真では二輪ともダリア
のような満開に。

薔薇さん、今年もありがとう。

この頃、私はリサイタルを2週間後くらいに控えて、
緊張感高まる日々を過ごしていたと思います。

住めば都、のようなことわざにすると・・・
「過ぎれば天国」とか???

薔薇さんが、しかもペアで、こんなに美しい姿をみせて
応援してくれていたのですから。

リサイタルに向けて~歴史や数学???~

5月のリサイタルに向けて、準備を進める日々。目下、暗譜の山。何となく覚えているようなものも、やはり意識的な暗記のような作業も必要になり、たまには複雑な構成を整理して覚えるのに、部分部分に記号をつけていくうちに、数式のようなメモを欄外に書くことになる。
α+{a1+b1}+{c1+b2}+{(a1'+c1')+b3}=第○△曲(ヴォルフのスペイン歌曲集)
・・・これって数学?!?!・・・

ところで、今回プログラムをウィーンにゆかりの作曲家でまとめたことから、ウィーンについても改めて調べたり、読んだりする機会となっている。昔、最初にウィーンを訪れた際に手にしていていたガイドブック(正確には分厚いガイドブックからオーストリアの部分を切り取って分冊状にしたもの)を眺めていて気が付いたことがある。

ウィーンのハイドンの家。ここでハイドンはオラトリオ『四季』や『天地創造』を作曲し、亡くなる1809年まで住んだ、というようなことが書いてある。1809年といえば、その翌年1810年にはローベルト・シューマンが生まれる。ショパンも同じ年の生まれだ。また、1811年にはリスト、1813年にはワーグナーも誕生した。世代交代というには、没年と成年の重複では間がありすぎるけれど、こんな風にハイドンとロマン派の作曲家たちの生きた時代が続いている、ということに、改めて不思議な感覚を覚えた。

人類の歴史はこうして紡がれていく・・・。

モーツァルトの腕時計

次回リサイタルに向け、歌の練習と並行して、取り上げる作曲家や曲の成立過程について調べる日々になってきた。辞典でモーツァルトの項目を読み、彼の人生の時系列に沿った出来事を読みながら、幼い時から本当に旅の多い人生を送っていたのだ、と改めて思わされた。それはひとえに息子の才能に気づいていた父レオポルトが、息子の才能を広く世に紹介したいと思った情熱によるが、彼らを「物乞いのよう」と非難する声もあったとか、芸術家、特に、形にして残すことのできない「演奏」家への理解は当時でもそのように難があったのか、と慮ると同時に、慰められるような気持ちにもなる。
 
後年、モーツァルトが成人した後、自作の曲を披露する演奏会は、彼自身が主催し、チケットも「モーツァルトのコンサート」と印字された名刺くらいの紙で自分で用意していたという、そのチケットを、資料展で見たこともある。
 
いろいろな意味で親しみを感じさせられるモーツァルトだ。
 
ところで、私にはモーツァルトには実はほかにも奇妙な思い出がある。
というのも、彼の生誕250年の年、私はザルツブルクを旅人として友人と訪れていた。これは私のはじめてのヨーロッパ旅行の旅程の一部だった。そのとき、ザルツブルクの土産物店で、モーツァルトのシルエットと生誕250年の文字がデザインされた腕時計を購入し、その後の訪問地ウィーンから日本への帰途につく折、この腕時計を、もう一つスウォッチの腕時計と一緒にスーツケースに入れて、委託荷物にして航空会社に託した。
 
これが成田に到着してみると、私のトランクは、鍵が壊された状態で出てきた。開けてみると!中は泥棒が入ったあとのようにグチャグチャ、そして、何と、他の物は例えばオペラ鑑賞時用などに持参したハンドバッグがその中でペシャンコに潰れていたり、という被害はあったが、なくなったものはなく、そのもう一つのスウォッチの腕時計も残存していた。ところが!!!!!モーツァルトの腕時計だけは無くなっていた。5000円くらいのほんのお土産物の時計だったけれど、この時の衝撃は忘れられない。何というピンポイントな泥棒・・・
 
というわけで、モーツァルトについて改めて読みながら、そんな思い出が昨日のことのように蘇っている。いつかまたザルツブルクに行ってみたい、と思っていながら、それ以来、彼の地を踏んでいない。ドイツ留学中にもザルツブルクには足を運ぶことはなかった。どこか私の中でトラウマになったのか?いえいえ、そんなわけではありません。機会があれば是非、訪れてみたい素敵な街です。
 
ですから、その後、知人からザルツブルク土産にモーツァルトチョコなど頂く機会などあると、本当にときめいてしまうのでした・・・
 
 

不思議な対話・・・

ドラマ「とと姉ちゃん」も今週で終わった。昨日土曜日の最終回では、昔に亡くなったとと姉ちゃんの父親がとと姉の出版社に登場、ひとりとと姉は父と対話をしていた。父亡き後、会社がここまでになるまでのこと、家族の歩んできた人生のことなどを。幽霊にしては随分とはっきりと登場していて不自然だなあ・・・と思わなくもない状態で見続けていると、やがてとと姉の目覚めの場面。これで、そうか、夢に見たのか、とわからされた。
 
私の昨今はというと、昨日は帰宅後にゆっくりしてテレビを見たわけだが、次回の演奏会に向け、プログラム構成を練る日々になっている。案として練る段階ももちろんあるが、今度はそれがどの程度、現実味があるのかを歌って試していく作業も必要になるので、この段階は、本番前と同じくらい、結構、濃密な日々となる。通して歌ってみるとどうなるか、など、結構、ヘヴィーである。
 
ところで、そのような過程で、取り上げる確率が高くなってきた曲については、例によって歌詞の読み込みも始まる。昨日の外出では移動の電車の中で行き帰り、ドイツ語の歌詞のプリントを手に、腑に落ちない単語などに鉛筆で印をつけて、次の勉強にそなえる準備を進めた。
 
さて、そこで印をつけた単語の一つに、ドイツ語の "Zwiesprach" という言葉があった。元来 "zwie" は数字の2である "zwei" に関連して、「二つの」という意味を持ち合成語を作る言葉である。"Sprach" は "Sprache" として辞書に出ている「言葉」を意味する単語である。この二語が繋がった "Zwiesprach" を辞書をひいてみると、女性名詞で "die Zwiesprache" の形で載っており、意味は、文学用語であることを示す印とともに「(多くは想像上の相手との)対話」となっている。
 
ちなみにそのドイツ語の歌詞の文脈では、主人公が自分の苦悩と対話をするばかり・・・という内容である。とと姉ちゃんのその場面は、随分長く一緒に語らっている感じだったから、またニュアンスは多少異なるかもしれないが、こんな雰囲気のことに二日続けて出くわすとは、奇遇だと思う。このようなちょっとした気づきは、そのとき書き留めておかないと、意外と忘れてしまうものである。目覚めるとそれまで鮮やかに見ていた夢を大抵は忘れてしまうことに似ているかもしれない。

アプリコットジャム入りチョコレートケーキ

最近ウィーンに旅行した友人のフェイスブックでの写真に触発されて、懐かしい思いでが蘇り、ウィーンに行ったときの自分で撮って来た写真を改めて眺めてみたり、ガイドブックの記事を興味深く読み直してみたりと余念がない。私は得に夢中になったときの集中力には長けているように思える(笑)。
 
さて、ガイドブックでも紹介されているウィーンの代表的スイーツ、ザッハートルテについての由来を読んだ。ホテルザッハーとカフェ・デーメルがそれぞれザッハートルテのオリジナルを名乗って争いになったこともあったとか。今ではどこのカフェにもあるものになったが、ザッハーのものはアプリコットジャムが入っていて、デーメルのものには入っていない、という違いがあるそうだ。
 
さて、このアプリコットジャム入りのチョコレートケーキ、というとはるかかなたに思い出がある。それは、中学か高校のとき、文化祭だったかバザーでのカフェで出すケーキを皆で手分けして手作りで家で作ってきたものを振舞ったことがあった。このとき私に割り当てられたのはチョコレートケーキだった。もらったレシピにはアプリコットジャムを挟むようになっていた。最後にケーキの外側をチョコでコーティングして終わる。このコーティングが結構難しくて、チョコが上手に薄く伸びずに固まってしまうと、召し上がる方が上品でフォークでさくっと切って食べようとしても、固くて切れない、という事態になる。実際これも経験した。成功作、不成功作はともに振舞われたが・・・
 
手間はともあれ、この時のチョコレートケーキは甘酸っぱいアプリコットジャムとの組み合わせが絶妙な味で、実に美味なものだった。
 
考えてみれば、これがザッハートルテそのものではないか!、と今日、改めて思った。そう、ホテルザッハーから、出来の悪さでクレームがつかないように、名前こそ、ただの「チョコレートケーキ」だったけれども・・・
 
ドイツ長期留学から帰国する際、私の取った学生向けの格安航空券はウィーン経由のオーストリア航空だった。ウィーンでの数時間の長い乗り継ぎ時間も、お世話になった方にウィーンの絵葉書でご挨拶状を空港のポストから出してみたり、お土産物店を眺めて歩いたりであっという間に過ぎた。この時、私が自宅にお土産に持ち帰ったのも、あの木箱(でも予算がなかったので・涙・まあるい小さな木箱)に入ったザッハートルテだった。赤白のオーストリア国旗の配色のリボンがかけられていた。
 
その後、ウィーン再訪の機会もあったけれど、まだゆっくりとカフェを巡ったり、様々な歴史的建築物を見尽くす程には歩いたことがない。またいつか訪れてみたい街のひとつだ。

虹の出現

昨日は台風10号の通過で出かけられるのかどうか、当日まで予定を決められず落ち着きませんでしたが、無事に予定していた練習場所へ。
 
台風の余波か、夕立のような強い雨が降りましたが、その雨上がりに・・・ピアノに向かって楽譜を広げて歌いながら、ふと窓の外に異様な光を感じてそちらのほうを見てみると!!!虹?!しかもスカイツリーにかかるように・・・。思わず写真の撮れるスマホを手に窓辺へ。
 
イメージ 1
それから観察が始まりました。
虹は次第に長くなります。というか雲が切れて見えてきた、というべきなのかもしれませんが・・・。
 
イメージ 2
あまりの鮮やかさに感動!こんなに幅が広く、鮮烈な虹はみたことがありません。次に何が起こるのだろう、と思わせるような虹です。
 
イメージ 3
みるみるうちに上方へと伸びてゆきます。
 
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こういう大きな虹になりました。
 
「稲妻に打たれたような」という形容があります。本当に雷に打たれたら大変ですが、その形容通りの感動が身体を走りました。もう今日はこれを見たから、練習は切り上げて帰ってもよいような気分になりつつも、もう一度ピアノに近寄ると、これならあの曲のあの箇所で声がよく出るかもしれない!、という思いがこみ上げて歌ってみると・・・、出ました~!でも明日も出るかどうかはわかりません(笑)。こうやって進歩につながれば、いつになっても嬉しいのが歌手の性のようです。
 
そして虹の七色の光は、夢を忘れないように!、とメッセージを送ってくれているようでもありました。本当に感動的な数分間でした。
 
イメージ 5
そして、最後は煙突の煙のようにきらめいて消えて行きました。