ねこ城のこと

以前、ライン河畔の山城で、猫城というのがあることを写真と共に記事に書いた。ドイツ語では "Burg Katz" という。
 
さて、驚いたことに、つい最近テレビを見ていたら、このお城は1989年(多分、そう言っていたと思う)から日本人の方が買い取って、その後、ホテルにしようと改修していたが、その後、この場所を含むライン中流域一帯が世界遺産に認定されたため、ホテルとしての使用は許可されなくなって、そのまま現在に至るのだそうだ。
 
時期的に考えると、私がしばしば列車でこのあたりを通っていた留学当時には、すでに日本のその方が所有されていた、ということで、知っていたら電車を降りて訪ねてみたのに!、と単純に思ってしまう私です。またそこを通る機会があれば?!
 

歌舞伎観劇

昨日、来日中の旧知のドイツ人の知人とそのご友人と一緒に、歌舞伎座での8月公演初日を楽しんだ。これは本当に面白かった。本当に久しぶりの歌舞伎。まだ祖母が元気だった頃、母と三人で行ったことを思い出す。
 
演目は「こもちやまんば」と「権左と助十」。
 
最初の演目が終わるとお昼の休憩となった。一緒だったドイツの方が、現在、ジャカルタ在住の方であり、自然とジャカルタの芸能文化との比較のお話にもなる。この演目の幕切れ近くに、沢瀉姫を力ずくで奪おうと手下を従えて現れる悪者の顔がオレンジ色に近いような赤に塗られていたのだが、この時、ドイツの方がおっしゃることには、インドネシアはバリ島の演劇でも悪者は赤い顔で出てくるのだそうだ。なるほど、何かそういったルーツには同じ東洋の芸能としては共通するルーツがあるのかもしれない。インドネシアと歌舞伎とにそのような共通点が出てくるとは考えてもみなかった。詳しくはきちんと調べてみないとわからないとはいえ、興味深いものである。
 
この「こもちやまんば」が伝統的な歌舞伎らしい衣装、立ち回り等があっがのに対して、後半の「権左と助十」のほうは、テレビの番組でも見たことがあるような、時代劇風のコメディであり、若者同士の喧嘩あり、夫婦喧嘩ありで、こんなものも歌舞伎にあるのか、と意外な気がした。こちらは大正時代に初演された新歌舞伎というのだそうだ。
 
それから驚いたことには、一日に全部で3部の異なる演目(各部2演目、合計6演目)による公演体制で、それが連日続くわけだが、複数の結構メインの役者が、一日のうちに2つか3つの演目に出演している、ということだ。これはかなりな重労働というか、仕事量だと驚かされる。オペラだったら出ずっぱりのワーグナーの役を毎日やっているような分量になりそうな感じで驚いた。これが伝統のペースなのだろうか・・・

ファン・ダイクのこと

そのベルギーの知人のお話の中に、現在お住まいの地域について、堤防(dike←英語)の上にある街で、云々、という説明を聞きながら、ファン・ダイクの名を思わず口に出した私。あれと同じダイクですか?と(笑)。確かその昔にベルギーを案内して下さった折、絵画展や銅像でそんな名前の画家のことを聞いたような気がしたからだ。そしてその画家には兄弟がいた。これも今日になってゆっくり調べてみると、ことは少々、複雑だとわかる。
 
まず、私が口にした名前のファン・ダイク (Van Dyck) は1599年から1641年に生き、ルーベンスに学び、17世紀のフランドルを代表する画家となった人物。
 
そして、かつて私がお話に伺った兄弟の画家は、それよりさらに時代を遡る15世紀前半にかけて生きた、同じくフランドル出身の画家兄弟ファン・アイク (Van Eyck) であり、油絵技法を発明したことで、美術史上の貢献が知られている。これがイタリアに伝わったというのだから、本当に重要な発見である。特に弟の名前ヤン・ファン・アイク (Jan van Eyck) は有名である。
 
こういうことは、いつか時間のあるときに調べてみよう、などと思うものだが、この機会に忘れないうちに書き留めておこう。
 
ところで、発想のきっかけとなった英語で「堤防」を意味する "dike" と彼らの名前 "Dyck" は直接は関係ないようだ。

鱈はバカリャオ?

先日、ベルギーの旧知の恩人ともいえる知人がお仕事関係で来日した折、東京で再会がかなった。その知人との食事中、ビールを頼んだら、「つきだし」に明太子数種類が出てきた。レモン味とか激辛とか昆布だし漬けのようなバリエーションで。これは何か、というのでまずは魚の卵であることを伝える。この日の会話は英語。かつて準一級までとった私だが、その後、ドイツ語やフランス語、イタリア語を習い、ドイツには長期留学もしたので、英語は正直なところ、使うのが一番少ない外国語となり、以来、どうにも出てこない。(といっても準一級を取得した頃、鱈を英語で言えたかどうかも実は記憶にない・・・笑)
 
そんな私に「鱈」の外国語としてまず頭に浮かんだのは「バカリャオ」だった。つまりポルトガル語だ。子供の頃、ブラジル生活で親しんだ言語で、その後も料理の名前などで家で話題になることが多いので、すぐに出てくるのだ。でもスペルは覚えがなかったので、今調べてみると "bacalhau" だ。ちなみにスペイン語も似ていて、"bacalao"となる。そして肝心の英語ではどうなるのかというと、"cod" となっている。鱈子は魚の卵である "roe" が複数形になって連結し、"cod roes" となる。しかし、このあたりは、お互いに外国語としての英語でコミュニケーションを取っている場合、相手にもピンと来る語彙があるかどうかも問題になる。
 
要は、魚の卵であること、その魚は鱈であること、が伝わればよし、ということで、私はとっさに出た魚の名前バカリャオで切り抜けた。これは先方にも伝わった(ようだ)。
 
とはいえ、英語も思い出して、ブラッシュアップしておかなければ、と思わされる一夕となった。

16歳だった猫たちのこと

このブログにも以前に書いたことがあったと思う。1999年、私の部屋の勉強机の下で、助けてあげた迷い猫ののが4匹の子供を生んだ。生まれた順に、チビ(雌)、茶々丸(雄)、花子(雌)、コロ(雌)と名付けた。この6月でそれから17年となった。16年目の昨年夏、花子が逝った。そして今年の冬、茶々丸が逝った。さらに先月、リサイタルの4日前にコロが旅立った。残ったチビは元気でひとり17歳の誕生日を今月通過した。以前に16歳まで生きた猫を飼ったことがあるが、17歳はそんな飼い主の私たち家族にも未踏の領域の長生きで、日々、気持ちも新たになる。
 
コロは昨年夏に花子が逝ったあと、乳腺腫瘍が見つかった。抱っこをしていた家族が木苺くらいの小さな突起に気がついて獣医さんに見せたところ、おそらくこの病気だろう、との診断だった。そして、猫の場合、転移が早いので、ふつうは複数ある片側、あるいは両側の乳房を全摘する、というのだ。ただし、16歳では手術どころか、全身麻酔にさえ懸念がある年齢だ。これで家族会議。結果、お腹の切り貼りはしない方向で臨むと覚悟を決めた。それからコロは8ヶ月生きてくれた。最後の1ヶ月は看病にも気を配った。そして、どの猫の最後も常なることながら、最後の1,2週間は食も細ってくるので、これなら食べるかな、あれなら食べるかな、と趣向をこらしてチャレンジが続き、一口食べた!、お水を飲んだ!とそれだけで一喜一憂するような日々。でも最期はやってきた。私のリサイタルは30日に迫っていたが、コロは26日朝に起きてみるとすでに他界し、硬くなっていた・・・前の晩は12時半までは付き添っていたのに・・・。でも、ちょうどリサイタル前の一週間は準備に専念するため、他の予定を入れていなかったので、奇しくもそれがコロとの最後の時間となった。昨年の花子のときも、同じ部屋にいたのに、ちょっとの間に息をひきとっていて、その瞬間に付き添えなかった。今年の冬の茶々丸の時は私がずっと手を握っていて、後であれが最後の息だった、とわかるまでそうしていたことを思い出す。今日はその茶々丸の月命日だ。
 
雨戸を締めようと暗くなってから玄関のドアを開けて外に出て、今日は曇りだから火星は見えないなあ、と空を見上げたりした次の瞬間、門のすぐ向こう側に猫がたたずんでいた。「あれ?猫ちゃんなの?どこの猫ちゃん?」と声をかけながら少し近づいてみたが、すぐに逃げて行ってしまった。ひょっとすると茶々丸が姿をかりて帰って来ていたのかもしれない、などとすぐに思ってしまうものだ。
 
私が初めてドイツの地を踏もうとしていた夏休みの前に生まれた猫たちがこうしてそれから16年生き、そして最後の一匹チビ丸は17年目を共に歩んでくれている。長期でドイツに留学した2年半以外は基本的にずっと一緒にいたことになる。一人で静かに暮らしていた留学1年目の夏に、祖母の健康状態が気にかかり一時帰国したが、玄関を開けて家に入った時、久しぶりの複数の猫のうごめく空間が、ある種の違和感をもって非常にめまぐるしく感じられたことも忘れられない・・・そう、動物を飼うのはそう簡単なことではありません(笑)。もちろん感謝と共に!

サックスブルーはどんな色?

先日、今年のリサイタルを終えたばかり。大きな衣装はひとまず事前に準備して安心していても、いつも結構、直前になって、小さな小物類を調達することがある。今回は演奏会前日に一部の荷物の運び込み(演奏当日の荷物をできるだけ少なくするための私の習慣)のために外出した帰り道、交通機関の待ち時間を利用してお店に足を運ぶと・・・、ちょうとドレスに合いそうなショールが目にとまった。しかもちょうど**パーセントオフ!の札がついていた!(と恥ずかしげもなくセール品を喜ぶわたし。これもくじ運みたいなもの、というわけで。)迷わず購入、帰宅してラベルを見ていると、カラー:サックスブルー、とある。実は、今回のリサイタルの衣装を探していたとき、あるとき一時取り置いてもらった気に入ったドレスがあった。その時もメモにサックスブルーと書かれていた。結局、着やすさの点でベストではなかったので、そのドレスは購入に至らなかったのだけれど、ここへきてサックスブルーの重複が気になった。
 
さて、リサイタルも終わって、一息ついた昨日、ふと思ったことには、サックスブルーってどういう意味なのだろう、ということだ。この時代だからネットで検索すれば何かしら情報が得られる。そこでわかったのは、サックス=ドイツのザクセン地方のザクセンの英語読み、という説があることがわかった。これで驚きを隠せない私!ドイツのザクセン地方とは、作曲家シューマンの故郷ではありませんか!!!
 
2006年のシューマンプログラムによる第一回リサイタルから10年、再びシューマンに深く思いを馳せた今回のリサイタルに、サックスブルーのショールになって、シューマンか、はたまたクラーラ・シューマンが一緒に居てくれたように感じて、ひとりで舞い上がってしまう私。シューマンさん、ありがとう、という気持ちです♥

酒飲みの作曲家???

リサイタルに向けて、取り上げる作曲家について事典項目を眺めたりする日々。今年没後100年でもあるマックス・レーガーの項目を読んでいると・・・酒飲みグセがあり、それが本人の生前の評価をおとしとか、そんなこともうっすらと書かれていました。真偽のほどはともかくとして、そんな話は前にドイツにいったとき、別な作曲家のことでも耳に挟んだ気がしてきました。そう、あの大バッハの長男フリーデマン・バッハは才能があり、作品も残しているのに、なぜあまり有名にならなかったのか、と謎かけをし、そして自らお答えも教えて下さった、ドイツのお役人おばちゃまのお話によると、やはり、「大酒飲みだったから、社会的評価を得るのが難しかったのよ」ということだったのです・・・
 
言及してしまった作曲家のお二方ごめんなさい。でもそれも今となってはご愛嬌だと思うのは私だけではないでしょう。素晴らしい作品を残した偉大な作曲家です。