ショパンとシュトゥットガルト

私が留学していたシュトゥットガルトには、ドンピシャリこの街が出身、という歴史的作曲家はいなかったと思うが、それでも時に作曲家の人生の節目にこの街の名が記録されていることがある。

1864年、借金から逃れる旅の途上でシュトゥットガルトに滞在していたワーグナーは、宿にバイエルン国王ルートヴィヒ二世からの招聘を伝える使者のミュンヘンからの訪問を受け、以後ミュンヘンに赴き、バイロイト建設に向け、擁護された華々しい活動が始まった。

それよりも30年すこし前の1831年9月には、ショパンシュトゥットガルト滞在中に故郷ワルシャワの陥落を知った。これは前年の1830年のパリ7月革命の影響を受けて、ポーランドでも独立の機運が高まり、1831年4月30日にポーランドが独立を宣言するも、ロシア軍が9月にワルシャワを制圧するに至ったものであった。1830年ワルシャワでデビューリサイタルを行ったショパンは、1831年にウィーンに滞在中、パリ行きを決めて、ザルツブルクミュンヘンシュトゥットガルトを経由してパリに向かうところだった。

パリに到着した後のショパンは、シューマンの有名な新聞批評「諸君、脱帽せよ、天才だ」を受け、世に紹介されることとなる。この批評はこの年(1831年)の9月27日にシューマンが送付し、12月にベルリンの『一般音楽新聞 Allgemeine Musikalische Zeitung』に掲載発表されたものである。批評された作品は、ウィーンで演奏された後、ハスリンガーにより出版の運びとなった、モーツァルトのオペラ《ドン・ジョヴァンニ》の二重唱からの《変奏曲》op.2だった。

シューマンショパン1810年生まれの同い年(ショパンには1809年説もある)で、この批評を書いたときのシューマンはクラーラの父ウィークのもとでピアニストをまだ目指していた時期にあった。シューマンが指の故障によりピアニストへの道を諦めるのは翌1832年、自らの新音楽時報を創刊するのは1834年になってからのことである。

まだピアニストとしてのアイデンティティもあったごく若い時期のシューマンが、このようにショパンの作品を批評していることは注目に値する。同世代の、自作を作曲して演奏するピアニスト、としての姿に、大いに親近感も生い抱いたのではないだろうか。シューマンピアノ曲作曲の皮切りともいえる《アベック変奏曲》を1830年に、《蝶々(パピヨン)》を1830年1831年に作曲している。

そのシューマンの足跡にも、実はささやかながらシュトゥットガルトが登場する。若き日、ヴィークにピアノを本格的に師事するより前、ライプツィヒ大学の法科を経て、ティボー教授の音楽サークルに憧れてハイデルベルク大の法科に移った年の夏休みに、スイスと北イタリアへ旅行した帰途、シュトゥットガルトを経由してハイデルベルクに戻ったのだった。

ちなみに先のワーグナーも1813年生まれで、ショパンシューマンより3つだけ若い同世代人であった。シューマン1840年以来、新婚時代の充実した音楽生活を送ったライプツィヒワーグナーの出生地であったし、ワーグナーが1848年に暴動に参加することになったドレスデンは、1836年夏、ショパンワルシャワで既に知っていたヴォジンスカ家のマリアという少女に改めて恋をした街でもあった。その後、二人は結婚の約束をするまでになるが、ショパンの喀血するほどの病気のうわさは広まり、このためもあってか彼女との婚約は破棄され、パリで失意にくれたショパンはやがて運命の女性ジョルジュ・サンドとその生を共にすることになる。

現代のコンサートのプログラムに今でも名を連ねる作曲家たちが、共通の街に行き交うように生きていた時代が大いに偲ばれる。