「白鳳の貴公子」

過日、東京芸術大学大学美術館(通称、芸大美術館)で開かれていた「国宝興福寺仏頭展」を観た。
 
この芸大美術館は出来上がって公開になったのは、確か私が大学院の博士課程に入った頃だったから、芸大の長い歴史からするとまだ日は浅い。それでも、芸大所蔵作品や学生の作品の展示にとどまらない、要は、大学の範囲をはるかに超えた、外部から作品というか展示そのものを迎え入れるような形で、一般公開のなかなか見ごたえのある展覧会が次々と催されてきている。
 
この芸大美術館が出来たばかりの頃は、その1階に、従来は古びたの小学校の広間のような学食だった大浦食堂が入居したところ、これも一般公開のため、一般の、特にシルバー世代のおばサン、おじサンがどっと押し寄せてお昼の定食などを召し上がっている光景に圧倒されたものだ。ここ、学食じゃなかったっけ?という具合だ。
 
そんな風景は今も続いている。湯呑はどこでもらえるんですか?などと話しかけられたりもする。
 
今回もそうだったが、テレビで開催中の展示が紹介されたりすると、他の美術館でも同じことが起こると思うが、その翌日から訪れる人がどっと増えるようだ。大学への道にもわんさか人の往来が出来る。この日、私はお昼ちょっと過ぎには入ったので、並ばずに入れたが、観終わって外に出てみると、分厚い行列が出来ていた。
 
今回のこの展示会は、芸大と興福寺日経新聞社の三者が主催となっていた。
まさしく、一般公開の美術展である。
 
興福寺の宗派である法相宗にまつわる古い文書等で始まる地下の展示を観終わって、エレベーター(ここは少し並んで待った)で3階の展示室に映ると、ようやく、この展示会のタイトルにもある国宝、興福寺仏頭が姿を現した!12体の勇ましい像に囲まれて、その一番奥の正面にこの仏頭はあった。「白鳳の貴公子」という後世の呼び名がついている、という仏頭だ、12体の像は、十二神将立像で、鎌倉時代13世紀の定慶ら慶派の彫像で、これがまた見事なものだ。当時は彩色が施されていたそうだ。これら十二の像は、説はいろいろあるそうだが、十二の干支に対応させて親しまれているとのこと、会場の説明では、例えば卯年は摩虎羅(まごら)大将、酉年は迷企羅大将が守ってくれる、と信じられるそうだ。
 
この十二神将については、地下の展示に平安時代11世紀の、板彫のものも展示されていた。それもとてもよく造られているが、しかし、この鎌倉時代の慶派の超像は、腰の曲線美といい、構えの決まり具合といい、立体的な像であるからなおさら、としても、ダントツの出来である。歌舞伎や現代の舞踏にも通じるような動的なセンスを感じる。鎌倉時代は近世の始まりだったのだろうか、とさえ思えてしまう。それに比べると平安時代の板彫のほうは、まだ原始的な素朴さ、感覚や表情の類型化された範囲内での表現、といった荒削りさがある、といったらよいだろうか。しかし、そこには逆に、摩訶不思議な不気味さが漂い、お呪いとか妖術といった、人智でははかりしれない世界の存在を感じさせてくれる、という意味ではとてもエキゾチックだ。(エキゾティックという言葉は元来、異国風という意味になるが、ここでは現代の常識や感覚からかけ離れている、という意味で。)
 
十二神将像にすっかり圧倒されてしまったが、その彼らが守っているという白鳳時代の仏頭は、それはそれは優雅なお顔だ。大きいからなおさらだが、大らかな、天下泰平という言葉がぴったりあてはまるような表情と存在感がある。種々の経緯を経て、さらには1411年の火災で行方不明となったが、その頭の部分が、明治時代になって、台座から発見された、という運命を持つ仏頭である。
 
同じ白鳳時代の仏像として、東京の深大寺にある像も展示されていた。それで、白鳳時代というのは随分と優雅な貴品ただよう仏像が作られたのだなあ、と思う。十二神将像の説明にも、1180年に平重衡の攻撃で、奈良の東大寺興福寺は大損害を被った、とあったけれども、そうやって、イイクニ作ろうの1192年鎌倉幕府の創始から、さらに武士の戦乱の世となり、日本の世相、日本人の顔は変わったのかもしれない、と思ったりする。(仏像のお顔は人間の顔ではないはずだけれど、しかし、作る時代の人間の顔がどうしたって反映されるのではないか、と想像してしまうのは私だけだろうか?ほかに仏像にはアルカイック・スマイルのように、様式的な表情ものもあるとはいえ・・・)江戸に至る武士の厳しい戒律の文化には、こんなお顔はなかったような・・・どうなのだろう。ヨーロッパにケルト人とか、ローマ人とか、時期によりその土地に住む民族がかわって、それぞれが文化を刻印してきたように、日本にも考えてみると、いろいろな時代があったのだ、と改めて想像が膨らんだ。
 
展示の最後、仏頭の後方の部屋では、ヴァーチャル・リアリティーを駆使して、一部がかけている(お顔は無傷!)仏頭の全貌を復元するの映像が流されていて、この復元の試みを芸大の先生がなさった様子だ。なるほど、ここで芸大もこの展示に関わったということか、と納得して、会場をあとにした。
 
今回の展示で、興福寺法相宗という宗派の大本山であることも知った。というよりも、これを帰宅して昔、高校時代に使った日本史用語集(こういう類のものを私は本棚に結構並べてある。何かの折に調べたくなることもあるし、大河ドラマで家族からの質問に応えるときも便利だ!)を見てみると、ちゃんと出ていて、何やら鉛筆で丸もつけてある。私がつけたのでなければ誰もつけるはずのない本だ・・・つまり、昔、勉強したのにすっかり忘れている、ということだ(笑)。これは南都六宗奈良時代の仏教の6学派、と用語集の解説にある。)の一つであった!
 
高校時代には随分と沢山の情報を暗記していたのだと我ながら驚きつつ、人の一生で成せることには限りがある、と思い知らされるようでもある。人生は、世の中にある沢山のものの中から、何か感心の向くものに夢中になって特化していく、という道筋であるような気がする。まあ、好きなことばかりを出来るのが人生ではないが、芸術のように、少なくとも何か志すものを持つ者にとっては、そんな思いがするものだ。といっても、折々に心の核心に触れたことは、忘れないでいたいものである。私がこのブログを綴って来たのも、何かそんな思いからかもしれない。