洗面器の割れたホームベースに

昨年、留学を終えて帰国してからリサイタルやコンサート出演はあったけれど、オペラ出演は今度が初めてだ。奇しくもその会場は、ささやかながら私がかつてオペラ・デビューしたホールだ。

その私のオペラ・デビュー公演の指揮者はまだ若いイタリア人だった。スカラ座で育ったその人との共演の機会は、歌の道を歩む私に新鮮な刺激を与えてくれた。そして思いがけないことに、数年後、私がドイツに留学した年、この指揮者はその街でドイツの歌劇場デビューを果たしていた。同じ街に私は偶然にも留学したのだった。留学先に到着し、まずはその街のオペラを見に行こうと、パンフレットを部屋で眺めて名前に気がつくまで、そのことを知らなかったから、本当にびっくりした。秋のシーズンが開幕すると、その演目の再演もあり、オペラ劇場の前で再会を果たした。公演鑑賞のお席は、彼の計らいでご招待、今までに座った事もないような特等席で、お隣は彼の可愛い奥さんだった。その後、この指揮者はヨーロッパに大きく羽ばたき、ホームベースのスカラ座にもデビューした。かつて共演した人が、こうして頼もしく活躍しているのは励みにもなり、とても嬉しい。

そんな指揮者とかつて東京で共演の機会を得て、私がオペラ・デビューしたときのホールが、今度のオペラの会場だ。私にとってオペラの舞台のホームベースといえる、愛着の感じられる空間だ。昨日が楽屋入りだったが、最初は記憶も薄れていて楽屋口と間違えてガードマンさんのいる所につかつかと歩いて入ってしまって、止められたり、楽屋に入ってもすぐにはトイレの場所も思い浮かばないほど、すっかり新しいところに来たように思った。でもだんだん記憶が蘇ってきて、当時の楽屋の風景が目に浮かびだした。この廊下にはヘアメイクさんが鏡を立ててスタンバイしていた、この部屋が衣装さんだった、このコインロッカーが写真の後ろに写っていた、とかいうことも思い出した。

その公演の本番で、侍女頭の私と伯爵夫人が二人並んで座って足を差し伸べているという浴場シーン(といっても服は着ていた)で、伯爵夫人が足を入れていた、稽古からずっと使っていた洗面器が、本番中パカッと真っ二つに割れた。指揮者も気がついて棒を振りながら目が点になっていたし、その二重唱の合間に大先輩の伯爵夫人様は、「縁起悪~い・・・!」とつぶやかれた。歌っている最中だったから私は言葉を発する余裕はなかったけれども、割れた洗面器を前に気が引き締まり、その前も後もこの公演は何事もなく好評のうちに幕がおりた。よかった。洗面器が何かの身代わりになってくれたのだろうか。

今度の本番も無事終わりますように。この公演からまた羽ばたいていく人が生まれるだろうし、またどこかで再会するようなご縁のある人もこの中にいる、と思うと、将来への展望もまた楽しくなる。

私は今日、髪を切り、本番への離陸体勢(?あれ?着陸かな?どっちだろう?着陸と思った方が地に足がついていい本番になるような気がするから、着陸にしよう。)、着陸態勢を整えた。

ショートカットは大人の女の人、という不思議なイメージが私にはあり、「・・・歳になったらショートカットにするんだ」、なんて言っていたわりには思い切りが悪く、なかなかできなかったショートカット。でも切ってみたら家でも意外に好評だった。私って何歳かって?それは絶対に秘密なのでした。これはドイツで師事したプリマドンナの先生からのご命令。歌手たる者、絶対に歳を明かしてはならずと。でもデートで一対一で聞かれたらうそはつきません。正直に答えま~す。それじゃあ、遅い??? 大丈夫、私はローレライではありませんのでちゃんと逃がしてあげます。

でもこんなことを言っている場合ではありません、今回は私は男役なのですから。宝塚では男役は本番後、楽屋から外に出るときにもスカートをはいていてはいけないそうです。ファンが待つ中、男役のヒーローさまがスカートで出てきたのでは台無しだ、というわけです。私もさっそうと楽屋を出てみようと思います。まあ、キャーなんていう女の子は居ないだろうけれど、これは自分の男役としての自覚を高めるための気分の問題なので、本番が終わるまで常に心がけます!私の役も結構カッコいいらしいのです、何せ女王様のお気に入りなのですから。「魔笛」の童子(子供の男の子)以外、男役は初めて。未だにそのときの演出の先生に劇場でお会いしたりすると、「キミ、童子だよねえ。今日は出てないの?」なんていうお言葉を頂戴します。今度はちょっと大人になったんですよ!あと数日、男役に磨きをかけて、男役冥利を楽しみま~す。