斎藤茂吉とレーナウの出会い

アララギ歌人として高校のときに習った歌人斉藤茂吉。当時、買って読んだ岩波文庫版「斎藤茂吉歌集」が久しぶりに本棚の奥から出てきた。

パラパラとページをめくってみると、ワイマールとかボン、ミュンヘン、インスブルク、ミラノ、ローマなどなど、私も足跡を残してきたような街の名が連なる箇所があった。しばし読みふけるうちに、巻末にある略歴が目に留まった。東京帝国大学医科大学で精神病学を専攻して卒業した斎藤茂吉は、医学研究者、医師としての生活に並行して歌人としても活躍した。40歳から43歳までウィーンとミュンヘンに医学研究で留学した経歴があり、そのときに各地を旅して詠んだ歌を後に、歌集「遠遊」、「遍歴」として発表していたことがわかった。

そこにこんな箇所を見つけた。

~ワイドリング。十二月二十二日、詩人レナウの墓にまうづ~

・悲しみを歌ひながらに気狂ひて果てしレナウの墓のべにたつ
・たどり来しレナウの墓の傍にほほづき赤くなれる寂しさ

レナウとは、私はシューマンの後期歌曲の名チクルス作品90の詩人レーナウとして知っていたけれど、日本短歌の代表的歌人として有名な斎藤茂吉さんが、レーナウを知っていたとは、意外だった。

確かに今も、ワイドリングの街にレーナウの墓があるそうだ。私も次にヨーロッパに行くチャンスがあったら、是非訪れてみようと思った。

他には、ワイマールのところに、こんな歌がある。

・シルレルの死にゆきし部屋もわれは見つ寂しきものを今につたふる

???シルレル??? そうか、Schillerを律儀に詠んだものだ。文豪シラーのことだ。私もシラーのワイマールの家は訪れた。不思議な気がした。

ボンでは、次のような歌を詠んでいる。

・Beethoven若かりしときの像の立つここの広場をいそぎてよぎる

というわけで茂吉さんは、ベートーヴェン第九交響曲の第4楽章の詩人まで、作曲家と合わせて網羅していた。すごい!ちなみに私の第九の楽譜にはいつも、ドイツの知人のおばさまが下さったシラーの肖像画の絵葉書を挟んである。

最後におもしろい歌があった。

ミラノ

・うすぐらきドオムの中に静まれる旅人われに附きし蠅ひとつ

私はパリのノートルダム寺院の前で、甘い缶ジュースを片手に、一匹の蜂に追いかけられて困った事があった。ミラノでは、ドゥオーモの前は男性でも危険なほどスリが多く、物騒と聞いていたので、いつも速足か駆け足で通り過ぎ、ついに中に入らないまま後にしてしまった。それ以来、今度ミラノ行ったときには必ず、といつも思っているが、まだ実現していない。いつか!

以上、歌集「赤光」などでおなじみの斎藤茂吉さんの短歌におもしろい一面を発見した。茂吉さん本人がこれらの外国での短歌について、「歌日記程度のもの」にすぎないという謙遜の言葉とともに、「私が留学の途にのぼらうとした時、外国の風物に接するにあたつては、歌の表現にもおのづから変化があらねばならぬといふ予感があつた。また実際に当たつてもその心構が常にあつたといふことは、この集の歌が証明しているのである」という風にも書き残していたそうだ。

異文化に接したときの衝撃が、私たちのものの認識の仕方に、何らかの変化をもたらす事は当然だ。いまさら西洋も東洋もないような情報の行きかう世の中になったけれども、それでも東洋の人間が西洋に源を発するクラシック音楽に取り組むときの立場について、考えさせられるようでもある。朱に交われば紅くなる、郷に入っては郷に従え、で、やはりヨーロッパ産の音楽の中で水を得た魚となるには、自分の魚の種類は変えようがないけれども、その水に馴染むための何かが必要だ。私たちは**人だからこうしかできません、というのでは、その音楽の本質に背を向けることになる。もちろん自分との間に共通項として感じられるもの、それが何なのか、人により違うのも当然だ。

そんなコツを会得した国際的な日本人演奏家がたくさん世界で活躍している時代になった。すばらしいことだと思う。そういう人たちに、日本での活躍の場もあるように、と願う。そのためには、演奏会を支える側のシステムそのものの見直しと努力も必要だろう。

(この記事中の斎藤茂吉の短歌、及び発言はすべて岩波文庫斎藤茂吉歌集」によります。)