ブラームスの徒歩旅行

ブラームスライン河沿いの徒歩旅行を好み、何度も歩いて旅をした。彼の最初のライン徒歩旅行は1853年で、9月1日にボンの近郊メーレムにダイヒマン一家を訪ねた。この一家が、ヨーゼフ・ヨアヒムがそもそも強く望んでいたことであったが、ブラームスデュッセルドルフシューマンへと強く導いたと言われている。そこで、ボン、ケルンを経由して、デュッセルドルフに趣き、9月30日にシューマン夫妻と運命的な出会いをすることになった。彼の運命の道のりはラインと共にあったのだった。
 
その後、クラーラやその子供達、ヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒム等と一緒にライン旅行をしたこともあった。
 
そのブラームスのライン旅行について、上記のようなエピソードも含めて、絵地図入りで解説しているドイツ語の本がある。『ヨハネス・ブラームスとボン』という本だ。昨晩、夜にどうしても目が冴えて寝付けないので、本棚からふと手にこの本を手にとった私は、先の記事に載せた「猫城」をまずは探してみた。ローレライのすぐ近くだからすぐに見つかった。それから、もっと詳しく見てみようと思い、自分の行ったことのあるエンガース城を探した。(この城を会場に開かれた、マスタークラスに参加したことは前にこのブログに書いた。)
 
地図と解説を見比べながら探すうちに、見つかった!何とブラームスもそのエンガースの地を訪れている。そこには1758年にトリアーの領主によって建てられた城があったと書かれている。エンガース城のことだ!それに続いて、隣町のノイヴィートでブラームスは、詩人でシューマンの歌曲にも多く作曲されている、ホフマン・フォン・ファッラースレーベンに会ったというのだ。ホフマン・フォン・ファッラースレーベンは『非政治的な歌』が発禁になり、その関連の思想ゆえ、ブレスラウの職を追われる。1849年に結婚した彼は、1851年にこのノイヴィートに移り住み、その後1854年にリストの仲介によって『ワイマール年鑑』の編集に携ることになりワイマールに引っ越すまで、この地住んでいた。そこをブラームスは訪れたのだ。
 
昨晩はちょうど、ブラームスのアルトラプソディを久しぶりに練習してみようと思いつき、寝る前に机の上に楽譜とCDを翌朝の勉強のために出して置いたのだったが、そんな夜に、ふと手に取った本に、こうしてブラームスと私の足跡の共通項を発見することができるとは、何とも嬉しいことであった。午後になって、練習した楽譜には、今は亡き指揮の先生の手書きの書き込みも発見!かつてレッスン中に、夢中になって、書き込んで下さったものだ。合掌。