「今美術の力でー被災地美術館所蔵作品から」@藝大美術館

 
昨日、たまたま看板に貼られたポスターで、この展覧会のことを知り、ちょうど空き時間に見学した。3・11で被災した地域から、茨城大学茨城県近代美術館、茨城県天心記念五浦美術館、いわき市立美術館、岩手県立美術館郡山市立美術館、水戸芸術館水戸市立博物館、宮城県立美術館が、それぞれの所蔵作品から数点ずつ出展していた。私に興味深かったのは、岡倉天心コーナーと、横山大観の二作品だった。
                                     
今回の震災による津波で、岡倉天心茨城県五浦(いずら)の半島の先端に立てた、波を見て瞑想にふけるための六角堂(観瀾亭カンランテイ)は流失したのだと、遅ればせながら知る。目下、明治38年の建設当時の姿に復元する事を目指しているとのことだ。このコーナーにあった絵の一枚《五浦》と題された1970年、塩出英雄という画家による、絵本着色による作品(茨城大学所蔵)には、この地帯に天心邸ほか、大観、春草、武山、観山らそれぞれの邸宅も据えられていた様子を見て取ることができた。
 
藝大美術学部の前進である東京美術学校の創設に尽力した岡倉天心は日本美術の伝統復興と文化財保存を訴え続けた。明治31年(1898年)、岡倉天心のもとに橋本雅邦、横山大観、下村観山、菱田春草ら26名により、谷中初音町に日本美術院が開院された。その後、明治39年に五浦海岸に移転した。日本美術院のホームページの沿革の欄には、経営難から、とその理由が書いてあるが、海が好きで釣りを楽しみ、波を観るための六角堂まで作ったという天心は、素朴に海の側での芸術活動をも喜んでいたように思われる。自然、万物を題材とした他の同人たちにしても同じだろう。
 
大正2年に天心が亡くなったあと、翌年には、日本美術院をその他のメンバーたちは谷中の現在地に再興したそうである。日本美術院にこのような変遷があることを私は知らなかったので、驚いた。
 
前に紹介させていただいた、茨城出身の私の祖父で画家の鈴木皐雲(1900-1948)は、青年期に東京に出て、大正65月、17歳で日本美術院を卒業した、と記録がある。ちょうど東京に日本美術院が再興されたのが大正3年のことであるから、ちょうどその頃、入学したのだろう。茨城の五浦にお歴々が邸宅を構えていた時期に、何かの関連で日本美術院へのつながりが出来て、東京への足がかりになったのかもしれない、と想像したりする。今となっては知るよしもないが、戦後まもなく早逝したため、私は会うことすらなかった祖父が、当時触れていたであろう空気の一端に、この岡倉天心コーナーで出会うことができたのは、私にとって思いがけない収穫であった。
 
他に、横山大観の有名な朦朧体が存分に発揮されたような。淡く明るい青い海からの淡い朱色の日の出の絵《海暾》(明治38年頃作、茨城県立美術館蔵)も素敵だった。
 
私の小学校時代、蔵王登山を題材に、蔵王のお釜の絵を夏休みの図画の宿題で描いていたとき、ちょうどうちに遊びに来ていた今は亡き祖母が、祖父の絵を覚えていてか、しきりに山の裾野の方を「ぼかすの、ぼかすの!」とぼかしを推奨し、水彩画で水を多く含んだ筆で一度塗った絵の具をのばして、まさにぼかしたりしているうちに、小学生が描いたにしてはなんとも渋い、ヘンテコな絵に仕上がって、夏休み明けに長いこと、みんなの絵と一緒に教室の後ろに掲示されていたときの気恥ずかしさをふと思い出した。「朦朧体」から私のそんな思い出が紡ぎ出された。午後のひと時に感謝。