松島にて
旧来からの霊験あらたかな土地で、もともと寺院のあった松島の歴史を続ける意図で、伊達政宗は瑞巌寺を建立した。松尾芭蕉の『奥の細道』の時代には瑞巌寺もすでにあった。松島はこうして瑞巌寺と一体となり、今に至るまで観光名所として親しまれ、日本三景の一つに数えられている。3・11の大地震では津波がこの松島海岸では1.4メートルほどで、それでも浸水被害は甚大であるが、近隣の海岸を壊滅的に襲った大津波からは免れた。昔の人は、有史以来の記録を重んじ、しっかりと場所を見極めて重要な施設を造っていた。現代人も大いに見習わなければならない。今回の津波で水につかった松島海岸駅の海側一帯などは、昔の地図で見ると全て海だったところだった、と現地の方の話に聞いた。どんなに技術が発展しても、町造りにおいては「自然」に対して謙虚に、せっかくの先人たちの記録を無駄にしてはいけない、という教訓が改めて生まれる。伊達政宗が見定めた場所に建てた瑞巌寺は、山門を超えて津波が入ったものの、ちょうど並木が終わる地点まで到達したところで、止まったそうだ。ちょうど現在、拝観料を払ったりする受付がある手前のところだ。すごいものだ。
ところで、仙台土産のひとつに、「支倉焼」というバター風味の皮にくるみ風味の白あんをつつんだ、和洋折衷のようなお菓子がある。これは支倉常長にちなんで名づけられたお菓子とのことである。仙台駅でも改札を入る前のお土産品売場の一角で売られている。
支倉常長は、伊達政宗が江戸幕府の許可を得て遣わした、慶長遣欧使節大使として仙台から出帆、メキシコから大西洋岸へ出て、スペインを経て1615年10月、イタリアに到着。11月3日(偶然であるが、現在の文化の日!)ローマ教皇パウロ5世に謁見、親書を呈した。その後1620年に仙台に帰還している。その間、幕府のキリスト教禁止、弾圧などあり、彼の労は無に帰されてしまったが、日本人として公式には事実上初めてヨーロッパに渡った人物として、注目に値する。それは福澤諭吉が参加した文久遣欧使節(江戸幕府により、1862年)、岩倉少年使節団(明治政府により1871年)より200年以上前のことであった。日本三景の松島を瑞巌寺建立で再興した伊達政宗の壮大なロマンのもと、ヨーロッパへと日本の使節がはるばると渡っていったのである。
今回、瑞巌寺の受付そばのお守り販売所に、「復興おみくじ」なるものがあった。200円で手のひらに入る大きさのかわいい紅白のダルマから好きなのを取ると、中におみくじが小さく折って丸めて入っている。「復興」と「福幸」を兼ねたとのこと、喜んで一つトライして、かわいい、でもかなり迫力あるお顔のダルマを持ち帰った。
すでに遊覧船も運航を再開し、観光客の姿も目にすることのできる松島だが、海を前に岸辺に静かに佇む人の姿、壊れたままの桟橋の一端を見るにつけ、複雑な思いが交錯する。鮮やかな松の緑の下、祈りと共に・・・。