シュヴァーベンの詩人ユスティーヌス・ケルナー没後150年に

イメージ 1イメージ 2今年は、ドイツ、バーデン・ヴュルッテンベルク州が誇る詩人ユスティーヌス・ケルナー(1786-1862)の没後150年にあたる。
 
私がこの詩人を知っているのは、シューマンの歌曲にその詩が歌詞として取り上げられているからである。今年4月に「2012年 春に」と題して予定しているリサイタルに、是非、歌いたいと思い、プログラムに組んである「ケルナーの12の詩」という1840年「歌の年」の歌曲集の一つop.35 が一番有名だ。でも実は、シューマンは「歌の年」以前の1828年、大学進学のため故郷ツヴィカウからライプツィヒに移り住んだ頃にケルナーの詩で歌曲作曲を試みている。そのきっかけは、医師の妻で歌を趣味にしていたアグネス・カールスからケルナーの詩による既存の作曲家の歌曲に目を通してみるよう勧められ、その後、自らケルナーの詩集を入手したことであった。だから、シューマンのケルナーの詩とのお付き合いはすでにとても深かった、といえる。上記の作品35に取り上げられた12の詩では、若者を元気づける外界としての自然、あるいは、デリケートな、傷つきやすい人間の心を癒す自然の宇宙的な力、など、自然と人とのいわば「交信」のようなものが描かれていて、そこにシューマンのデリカシーと情熱が音楽で反映され、印象深い作品となっている。
 
昨年の3・11のあと、初めてやって来る春に是非、歌いたい、と私の心が求める作品の上位にこの歌曲集はあって、迷わずプログラムに組み、すでに1月にチラシも出来上がっている。そのケルナーが今年、没後150年にあたることに気がついたのは、ここ数日前のことだ。演奏会のプログラムに記載するために、年代を調べていて気がついた。奇遇なことだ。何せ、私自身の企画によるリサイタルは、2006年のシューマン没後150年に始まったので、「シューマン150企画」という企画名をつけさせていただいている。だから、150という数字自体、何かご縁を感じてしまうのである。ただの偶然、といえばそれまでだが・・・、私の母校の一つ慶応義塾の創立150周年もつい最近の2008年だった。そのときにも、同じ150だなあ、と思ったものだ。次は何の150が来るだろうか。(そういえば、この間、マクドナルドでマックフライポテト全サイズ150円!という期間限定キャンペーン(すでに終了)にのせられて、マクドナルドに足が向き、Lサイズをいただきました!・・・笑・・・マクドナルドは、私の敬愛するドイツでの先生で、プリマドンナS.G先生も大好きと仰っていたので、ファーストフードもまんざらではない。)
 
さて、冗談はともかくとして、ケルナーの誕生当時はヴュルッテンベルク公国の時代で、家は祖父の代からルートヴィヒスブルクという街の上級官吏であった。メーリケが生まれたのと同じ町で、現在でも街には、この2人とその他に2人、合計4名の、この町が誇る歴史上の著名人のレリーフをつけたオベリスク(写真左)が立っている。私もシュトゥットガルト留学中、電車で何度も通り、バロック様式の教会前の広場(写真右)で開かれる有名なクリスマス市を訪ねたこともあり、とても懐かしい。シュトゥットガルト中央駅からS-Bahnで15分くらいのところだ。また、留学の本当に最後の最後、日本へ経つ日の数日前、私をお宅にお招き下さったドイツ人ご夫妻も、このルートヴィヒスブルクの方で、手作りのピザやケーキをご馳走になったあと、ルートヴィヒスブルクからシュトゥットガルトの私の家の前までお車で送っていただいた。私の留学の思い出のアルバムのいわば最終章にもこのケルナーの故郷ルートヴィヒスブルクは登場する。ちなみにこの街では5月頃に、ヨーロッパの著名な演奏家、歌手が出演するルートヴィヒスブルク音楽祭が毎年、開催されている。
 
ケルナーの父の死後、母親は彼を商人にしようとするが、上手くいかず、彼は詩を書き始め、紆余曲折を経て、デュービンゲン大学に学ぶこととなり、医学と自然科学を修めた。(父親が早く亡くなったという境遇もシューマンと似ている。)ここで、ルートヴィヒ・ウーラントやグスターフ・シュヴァーブと親交を育み、それが後に、多くのケルナー信奉者を集めたシュヴァーベン派という詩人の一派の元となった。後に妻となるフリーデリケに出会ったのも、友人ウーラントの誕生日を祝う席でのことだったそうだ。結婚は1813年。彼は1810年(シューマンの「歌の年」にあたる)から医者としての仕事をはじめ、ヴュルテンベルク各地に赴任、1819年から1851年に年金生活に引退するまで保健所医師として勤務したヴァインスベルクに彼は1822年、ついに家を建て、それは今に至るまで、「ケルナーハウス」として観光の名所となっている。この家にはケルナーによる膨大な美術品コレクションが収められ、また、ケルナーの仲間たちの交流の場となった。そこには先の学生時代からの仲間であったウーラント、シュヴァーブや、他にレーナウも出入りした。私も同じ州に留学していたのに、まだそこは未踏の地だ。いつか訪ねてみなくては!
 
彼が25歳で医師となってから、66歳で引退するまでが41年、その途中の38歳からこの家に居住、その後の隠居生活11年を含めると、合計39年間をこの家で過ごしたことになる。家を建てて、車を買って(これがケルナーの場合、美術品収集だった)という、ごく普通の、でも実はとても貴重な「幸せ」が、現代の私たちの社会にも重なって見えてくる。150年というのは、そう遠い年月ではない。