シューベルトの「野薔薇」のこと

イメージ 1やっぱりバラ、綺麗だなあ・・・後ろの蕾からもかすかに薄オレンジ色の花の兆しが見えています。
 
バラにぞっこん、ということで思い出すのは、有名なシューベルトの「野薔薇」。
 
この曲はゲーテの詩に作曲されたもので、内容は少年と、バラに喩えられた少女のお話。少年は美しいバラに惹かれて、摘みたいと思う。バラは、いえいえ、だめよ、そんなことしたらあなたを刺すわよ、なんて言っている。結果、少年はバラを摘んでしまって、バラには抵抗しても無駄だった、という落ちだ。
 
この小バラード風、つまり物語り風の詩を歌おうとすると、私はどうしても少しゆっくり目のテンポにしたくなる。ところが、シューベルトの大抵の版についているメトロノーム記号は四分音符69で、それは結構、快速なテンポである。手元にあったフィッシャー=ディースカウ氏のシューベルト歌曲集のCDをかけてみると、やはり小気味よいほどに速いテンポで歌っておられる。楽譜どおり、当然だ。
 
でも、どうしても私はこの詩と音楽に向かうと、もっとゆったりと、のどかな田園詩風、牧歌風に演奏したくて仕方がない。急に、過去の名演奏家の録音を聴いてみたくなって、昨今では、こういうとき、非常に便利なYou-Tubeでこの曲を検索してみた。
 
次第に有名歌手の演奏が出てきた。そして、ついに私が歌いたいのと同じようにゆったりとしたテンポで歌っているものを発見、名前を見ると、ひとつはフィッシャー=ディースカウ氏と戦後のドイツ・オペラ界とドイツリートを牽引した、エリーザベト・シュヴァルツコプフのもので、ピアノはワルター・モーア。もう一つは、アメリカ出身でヨーロッパでも活躍したソプラノの名花アーリーン・オジェーさんのもので、ピアノはエリック・ウェルバ。(オジェーさんは、シュトゥットガルトのヘルムート・リリンク氏が東京でバッハ・アカデミーを開催した1980年代後半に、ソプラノの講師、ソリストとして来日されて、当時、高校生だった私は、見学に行って、サインまでいただいて、今も手元にある。早逝の惜しまれる名ソプラノだった。)それからもう一つ、フランスのビロードの美声ジェラール・スゼーのものもゆったりとしたテンポで、ピアノはお馴染みのダルトンボールドウィン氏。さて、これらのゆっくり系バージョンの演奏時間に注目して驚くことに、皆さん共通して画面下に2:05と表示が出る、つまり偶然の一致でこの曲の演奏に2分5秒(あるいは4秒)かかっている。一方で、速いな、という印象のフィッシャー=ディースカウほかの方々の場合、1分44秒、シュライアーのは1分47秒くらい(このたった3秒でも印象が随分違う)。ちなみに、楽譜のメトロノーム記号どおりに演奏してみると、前奏から1番の終わりまでで約34秒。これが3回繰り返されて、最後に短い後奏がつくところまで計算すると合計1分47秒。これでフェルマータは殆ど付かない場合だから、この速いバージョンの方がたの演奏時間はむしろ速すぎるくらいだ。
 
いずれにしても、この短い曲において、所要時間20秒の差は、テンポの印象にこんなにも反映されるのかと改めて驚くほどで、音楽は、本当に時間芸術(この話題ではそう哲学的なレベルの「時間」ではないが)であることを思い知らされる。
 
原典主義の現代にあって、私も、留学中にも随分、楽譜を忠実に読む訓練を受けたが、同時に、連綿とした演奏の歴史というものがあり、過去の演奏家を意図的に真似ようとするのとは別に、偶然に、その中のどなたかの方向性に自分がいることに気づくことがある。いくら原典に忠実にといっても、演奏には、自然に個性とか、その人の血、脈拍とか、いろいろなものが有機的に反映されてくる。
 
むしろ、自分の本番が近づいていくるほど、同じ作品の他人の演奏や録音を聴くことから自然と遠ざかる習慣が私にはあり、恐らく同様の演奏家の方は多いと思う。自分が練習以外のことをしている何でもない時間にも、音のない中で、何かが自分の内なる世界で進行中、成長中、というような感覚で、その間、他の方の録音を聴きたいと思うことがまずなくなる。そうやって、自分の身体を通して作品を煮詰めた音楽が、結果、誰のと似ているとか似ていないとか、そういう一つの形に出来上がるのは、しかし、とても面白いことだ。
 
そして、もちろん日頃、何でもないときには、私は演奏会や録音を聴くことをとても楽しみとしている。しかし、この「野薔薇」に関して、今まで遅いテンポの録音は手元にもっていなかったし、有名な曲すぎて、意識して聞いた覚えはなかった。でも、随分といろいろなドイツリートを歌ってきて、ふと野薔薇を口ずさんでみよう、というときに、この微妙なテンポの違いの問題に気がついた。今の私は、野薔薇は「ゆっくり派」!
 
先のゆっくり派の名演奏家たちをYou-Tubeに発見して、一安心、思う存分ゆったりとした気分で歌ったリハーサルのときのビデオを今、チェックしてみると、驚くことに、これまた2分4秒、余韻もいれると2分5秒、きっかりゆっくり派バージョンのタイムと合致していた。
 
シューベルトさんは何とおっしゃるのだろう。よく、作者を離れると作品の一人歩きが始まる、という話があるけれども、これも例にもれないだろうか。基本的に作曲者の意図を忠実に読み取り、体現する演奏をすることが私のモットーであるのに、何だかおかしい。そこには音楽だけでなく、詩人の魂も宿っているからだろうか。ではゲーテ閣下は何と仰せになるだろう。あるいはゲーテ閣下を意識してシューベルトは、詩の軽快な韻律が間延びしないよう、速いテンポ指示をつけたのだろうか?!そのあたりは、恐らく永遠の謎だ。
 
以上、本日のバラに思う。