現実のドナウ

今回は、教会でのコンサートとウィーン・フィルのジルヴェスター鑑賞という二つの目的を無事に果たせたことに感謝して安堵しつつ、考えてみればホテル・ザッハーのカフェにも座っていない、ホテル・インペリアルにも入っていない(正確にはウィーンフィル事務局に行ったときに、外観は見ているはず)、その他興味のあった有名な歴史的カフェにも入っていなければ、チョコレート屋さんにも入っていない、楽譜屋にもCDショップにも行っていない、他にもたくさん見残したものがあるような気がしながら、以前からうちにある森本哲郎さん著「ウィーン」という本をぱらりとめくってみると、「旅とは、何かを見残してくることだ―と私は思う。」という文章が目に飛び込んできた。それは「もっと大事な、もっと貴重なものを見落としてきたのではないか、そんな気がするからこそ、もういちど旅に出ることになるのだ」と続く。驚いた。まさにその通りの心境に私はあった。
 
旅とは、そもそも長さに関わらず、時間制限のあるものだ。
 
そして、ウィーンは何か求心的なエネルギーのある街だ。リングがあるから、という錯覚によるばかりではないと思う(笑)。見てみたい教会、作曲家にゆかりのある建物、歴史的なレストランにカフェ、街中あちこちにあるいわれのある建築物、などなど絶対に一度の滞在では見切れないような対象物に溢れている。いや、ウィーンに長期滞在、あるいは住んでいてさえ、まだ行っていないところが残りそうな勢いだ。
 
すでに懐かしく思い出しながら、ガイドブックのシェーンブルン宮殿のところに、ここでマリー・アントワネットは幼いモーツァルトからプロポーズされた、などと読めば、ああそうだ、マリー・アントワネットはこのウィーンからパリにお嫁にいって、フランス革命の最期となったのだった、と思いを馳せた。(シェーンブルンにも今回は行っていないが、20年くらい前に一度行ったことがある。こういう歴史物件は今も昔もそうかわらないだろう、と思うと心も安らぐ。)
 
空港へ向かうバスからは、街を発車するや否や、ドナウ運河が見えてくる。リングの東側にはすぐ外側にドナウ運河が位置している。名残惜しい思いで、思わずカメラを取り出して車窓からシャッターを切る。ウィーン・フィルのアンコールで聞いたばかりのはずの「美しき青きドナウ」の気分と風情はなぜか、このときばかりは消え失せている。ドナウが青くない(これは20年前のウィーン旅行のあとに、私が殆ど真っ黒いような鉄道から見たドナウ河を油絵で小さなキャンパスに書いて、家族に驚かれたときと同じだが、今回のほうが、もう少し、明るいグレーではあった)ためと、飛行機に乗って日本に帰るために空港に向かう、という妙に現実的な事情のせいだっただろうか。ふと、ロマンと現実、歴史的過去と現在、の交錯を思った。
 
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