ライプツィヒのバッハにちなんで:マーラーの交響曲第2番「復活」とバッハ

マーラー1886年から、なんとライプツィヒ市立歌劇場で首席指揮者ニキシュのアシスタント指揮者として2年間を過ごしています。この街で、マーラーは作曲家としても、ウェーバーの孫と知り合ったことを機に、ウェーバーのオペラ「3人のピント」を編曲し、1888年に初演は絶賛され、ハンブルクドレスデン、ウィーンでも再演されました。R.シュトラウスチャイコフスキーと知り合ったのも、「子供の魔法の角笛」に魅せられたのも、この頃でした。そして、交響曲第2番の第1楽章は、そのライプツィヒでのウェーバー作品初演の直後に始まったのでした。

やはりバッハの街、ライプツィヒが彼にも何か英気を与えたに違いない!!!と思う私でした。そもそもこの街を拠点に活動した作曲家、芸術家は数知れません。

さて、1901年にアルマに出会う前のマーラーは、1891年以来、ハンブルク市立歌劇場の指揮者としてハンブルクに赴任していました。ここは作曲家カール・フィリップエマヌエル・バッハと作詞家クロプシュトックが、教会音楽の分野で歴史に名をとどめていた街でした。ハンブルクでの指揮者先輩で、マーラーが尊敬していたハンス・フォン・ビューロが亡くなった折、ハンブルクのミヒャエル教会での葬儀で、クロプシュトックの「復活」のコラールを聴いて、終楽章への啓示を受けた、とマーラーは知人への手紙に書き残しているのでした。交響曲「復活」の第5楽章の詩は、マーラーが手を加えていますが、クロプシュトックによるものです。

1724年生まれのクロプシュトックは、1770年から1803年に亡くなるまでハンブルクに住んでいました。同じハンブルクに1767年から、テレマンの後任として、カール・フィリップエマヌエル・バッハが五大教会の楽長として赴任し、なくなる1788年まで就任していました。カール・フィリップエマヌエル・バッハは、ヨハン・セバスチャン・バッハの息子で、最近新訳も出たという『正しいクラヴィア奏法』も書いた、ハンブルク大バッハと呼ばれ敬愛された音楽家です。

クロプシュトックはハンブルク時代には、すでに詩人としての最盛期を過ぎていましたが、歌詞創作の才能は卓越していて、ハンブルクの教会音楽に果たした業績は、コラールの歌詞創作者として、カール・フィリップエマヌエル・バッハの名と並んで語り伝えられていました。

カール・フィリップエマヌエル・バッハがクロプシュトックの詩に作曲したのは世俗曲2曲、宗教曲2曲だけですが、二人の関係は親密で、1775年の大晦日にバッハが演奏したヘンデルメサイア』のドイツ語訳はクロプシュトックが受け持ったものでした。

こうして、マーラーが「復活」第5楽章への啓示を受けたというクロプシュトックの「復活」のコラールから、ハンブルクでそのクロプシュトクと親交のあった、カール・フィリップ・エマヌエル・バッハを通して、間接的ですが、その父ヨハン・セバスチャン・バッハまでつながる不思議な縁があったのでした。