ウィーン子の生活

私はシュトゥットガルトのバッハ・アカデミーのマスタークラスで一人のウィーン子に出会った。

オーディションの日、合格者の発表の時刻に皆が集まってくる。娘さんがオーディションを受けたというお母さんが、私に話しかけてきたりもした。いざ、紙が張り出されると、私の名前があった。そのお母さんは残念そうに娘さんの名前はなかった、と言う。よかったわね、頑張りなさい、と激励の言葉を社交辞令にしては温かくかけてくれた。

配属になったアルトのクラスに行くと、オーディションを通過した他のアルト歌手たちが三々五々集まっていた。そこに、なぜか男性が一緒にいる・・・、それはウィーンから参加しているアルト歌手の彼氏(と思ったが、後で聞いたら結婚していたので夫)だった。

クラスの講師の先生がやってきて、方針を説明して解散。その彼女の夫はまた来週の週末に来るよ、と言って帰っていった。何とまあ、車でウィーンからオーディションに彼女を送り届け、自分はとんぼ返り、1週間働いて、また次の週末に来るのだ。

さて、その生粋のウィーン子の彼女は、とても堂々としたお妃さまのような美しい風貌で、背も高く近寄りがたいような人だったが、お父さんの仕事の赴任で小さいころ横浜に滞在したこともあるとかで親日派のようで、よく声をかけてくれてた。その次の年、シュトゥットガルトにバッハ・アカデミーの行事に来ていたときにばったり再会して、もうひとりベルリンからの青年も交えて、しゃぶしゃぶを出す店に誘われてついて行ったこともあった。このしゃぶしゃぶにはお肉の他に、鮭もあって、たれは塩コショウに多少の醤油が入ったような味つけだった。日本人としての責任上、「オリジナルには魚はなくて、普通のお湯で煮るのだけれど・・・」と言ってみたものの、お箸を上手に使っておいしそうに、楽しそうに食べている二人を前にそれ以上、口を挟むことは控えた。本当においしかったようで、最後はその味つきのたれまで、大きな蓮華ですくってとりわけ、すべて飲み干してしまった・・・。もちろんわたしも飲んだ。
 
その次の年の夏、私はウィーンでシルヴィア・ゲスティさんのマスタークラスに参加することになった。この先生は当時、シュトゥットガルト郊外にお住まいで、すでに何度かご自宅でレッスンをしていただいたこともあった。長期滞在するには普通のホテルは割高で大変なので、何か手ごろな宿の情報を聞こうと、彼女に電話をかけた。すると、ウィーンに来るなら、うちに泊まればいいじゃないの、という。それで私は、ウィーンのこの若夫婦宅に転がり込むことになった。

しかも、私が到着する日から1週間は、ウィーン楽友協会の合唱団に趣味で所属している旦那さんが、ザルツブルク音楽祭の舞台に合唱で出演するのにあわせて、夫婦2人でザルツブルクに行っていて不在、お隣さんに鍵を預けておくから、もらって勝手に入って暮らしているように、とのこと。よくもまあ、マスタークラスでたまたま知り合っただけの、東洋の果てからの留学生に、無用心にも?!好意を寄せてくれるものだなあ、と思った。その信用は本当にありがたいことだった。

そのアパートは音楽家が多く住んでいて、後で聞いたら、お隣さんはウィーン・フィルでヴァイオリンを弾いていたが今は定年退職した、というヴァイオリン弾きのおじさまであった。

さて、彼女夫婦が戻ってきた。旦那さんは仕事、彼女はやはり歌の練習その他の日々。で、ある夕方、私がマスタークラスから戻ると、アパートの下の中庭にあるビアガーデンに行こうということになった。そこで、彼女が飲んだのはハーブティーだったけれど、夏の日の夕方、木陰のビアガーデンにてくつろぐひと時の贅沢を味わった。そんなときの彼女の様子は、とても洗練されて、フレッシュなウィーンの文化を満喫して育った女性として私の目に映った。

その彼女も当時からオーディションを受けにいったり、小さな演奏会で歌ったりしていて、その秋には、ウィーン郊外の劇場のオペラの合唱の一員として、日本ツアーに参加すると言っていた。

それからまた時がたち、今年の秋には、同じオペラの、今度はソリストの一人として、彼女が日本ツアーで日本にやって来る。お互いの歌の道での進展を喜び、励ましあっている、留学中に得た貴重な友である。 

ウィーン宅で結婚式の折の写真を、式からもう1年以上経つのに、まだアルバムに入っていない状態で、つぎつぎとフィルムごとに束なったものをたくさん見せてくれたので、最後の日、それらの写真が全部収まるようなアルバムをプレゼントに置いてきた。あとでそれを開けた彼女から、写真が全部入った!!と喜んでメールが来ていた。