カール・フィリップ・エマヌエル・バッハ (1714-1788)

先日、私はバッハの次男カール・フィリップエマヌエル・バッハの作品の演奏を聴きました。

大バッハの次男で、晩年はハンブルクテレマンの後任として教会総監督をつとめ、やはり「大バッハ」と慕われた彼は、その前に1740年からプロイセン王国のベルリンでフリードリヒ大王(フリードリヒ2世、在位1740ー1786)の宮廷音楽家チェンバリストとして仕えていました。フリードリヒ大王はポツダム離宮サン・スーシ宮殿を作ったことでも知られています。
サン・スーシ宮殿の紅葉は、私がドイツ留学中に見たもっとも美しい紅葉の風景として、私の記憶と写真に収まっています。このブログにも以前に紹介しました。

カール・フィリップエマヌエル・バッハのチェロ協奏曲や管弦楽曲をその演奏会で聞きましたが、とても刺激的で、父バッハの音楽に時に現れるスピードの緩急の快感といった側面が、息子の音楽にはとてもおおらかに現れているように思われました。演奏は素晴らしいチェロのソロをなさった鈴木秀美さんの率いるオーケストラ・リベラ・クラシカでした。先日オペラで共演させていただいた鈴木雅明さん率いるバッハ・コレギウム・ジャパンと共通の奏者がほとんどでした。名演でした。客席に空席が目立ったのが残念でした。こんなハイレベルな贅沢な音楽を聴くことが出来ると、東京にいる甲斐もあるなあ、と思います。シリーズで演奏会を開催しているようですが、私は今回初めて聴きに行った次第でした。

さて、カール・フィリップエマヌエル・バッハは父を大変尊敬していたけれど、その父の手本を離れて独自の様式を創出したともいわれ、その著書「正しいクラヴィア奏法試論」(1753)に彼の流儀を見ることができるようです。(全音出版社から東川清一さんという方による新しい日本語訳が出たと聞いています。)

父であるJ.Sバッハが、宮廷楽長をしていたケーテンからライプチヒに移った要因はいろいろありましたが、息子たちの大学教育の可能性も考慮したことも、ライプチヒ行きの背中を押したようです。父バッハは後世の作曲家の原点となり、またあらゆる分野の演奏家からも敬愛される大作曲家ですが、こうした家族的な配慮を持った人であったことを知ると心暖まります。以後、ライプチヒのトーマス教会とニコライ教会の礼拝を毎朝かけ持ちして徒歩で行き来する、多忙なカントル職に徹した父バッハ。家族の生活を守るためにも安定した収入を得られるこの職は逃すことが出来なかったのでしょう。しかし、その制約された職場環境の中で、例えばオペラを書く時間も機会もありませんでしたが、しかし可能な限りの分野において、父バッハは最高の傑作をたくさん残しました。

長男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが、1740年の在位開始年から仕えたフリードリヒ大王のもとを、父大バッハも訪れていた事も忘れてはなりません。父の晩年の名作「音楽の捧げもの」の主題は、1747年にポツダムを訪問した折にフリードリヒ大王が即興演奏のために彼に与えた主題であったといわれています。この大王の下に、後に長男カール・フィリップ・エマヌエル・バッハが登用されるのです。息子の実力はもちろんですが、その前に確かに父の足跡もあったのですから、世の中の人と人とを結ぶ不思議なご縁がここにもあったようです。

最後になってしまいましたが、あのハイドンがこのカール・フィリップ・エマヌエル・バッハを熱心に学んだことを演奏会のプログラムで知りました。演奏会の最後にはそのハイドン交響曲も演奏されました。音楽史には私の知らない、おもしろいつながりが、まだまだたくさんあるようです。ブラームスはそのハイドンを尊敬していました。