ジュリアス・シーザーの思い出と共に

ジュリアス・シーザーポンペイウスの骨壷を前にして、「昨日までの覇者も、今日はこうして塵となり骨壷におさめられるか」と、一人歌うシーンがあった。

これは中学か高校のときに暗記させられた平家物語の有名な次の部分にそっくりだ。

祗園精舎の鐘の声、
諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、
盛者必衰の理をあらわす。
おごれる人も久しからず、
唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、
偏に風の前の塵に同じ。

祖母の納骨を昨日済ませ、気が張っていたのか、今日は一日ちょっと疲れ気味。ふと、ドイツで大家さんだったおばあちゃんが、知人のお葬式、埋葬から帰ってきて一緒にお茶を飲んだときのことを思い出した。ドイツは今でも土葬だ。日本は法律で火葬に決められている、と説明したら、大家さんのおばあちゃんに、身の毛がよだつようなそぶりと共に、恐がられてしまったことがあった。

そして、今度は、こうして昨年出演したオペラ「ジュリアス・シーザー」のシーザーの一場面をふと思い出したのだ。ローマでは、骨壷を前に、塵と化した、という台本からして、火葬だったのか、と改めて思った。エジプトはミイラの文化だったけれども。そう思ってちょっとインターネットで調べてみると、確かにローマ時代のガラスの骨壷のガラスを研究している、などという大学の研究室まで出てきた。

肉体は死んだ後は、自然に還るはずなんだけれども、骨壷に入ってしまうと、それには時間がかかりすぎるのではないかと心配になる。

・・・でも、お骨になっても一緒の壷で、カタッコトッと慈しみ合えると人と結婚したいなあ、とも思っている私でした。結婚する前に骨になったあとのことまで考える人なんていないですよね・・・。これをロマンチックというかオカルト的というか、どっちなんでしょうか。それともいっそ一人自由にイタリアのアドリア海にでも撒いてもらおうかな。

とにかく99歳の祖母が亡くなったことを機に、人生は限られた時間であるということを強く感じたのでした。ちょっと寂しいようでもありますが、同時に、生きている間は飛行機の滑走路を滑走しているようなもので、離陸の瞬間が人生が終わるときなのかなあ、とも思いました。その人の生も死も、一本の志向性のライン上にある、といったらよいでしょうか。

明日からまた元気に歌おうと思います。4月に迫る演奏会に向けて準備を進めていますが、次回へのプログラムのリクエストなどをいただくこともあり、先々のことを考えるのも楽しみです。みなさんの応援に感謝しています。