お国はどちら

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ドイツは歴史的に複数の公国、もっと遡ると複数の民族の集まってできた国です。

バーデン・ヴュルッテンベルク州は、もともとこの州の土地にあったバーデン公国とヴュルッテンベルク公国の名をとった呼び名です。だから、だれも自分が「バーデン・ヴュルッテンベルク」に属すると思っている人はいないそうです。つまり、もともとはバーデン公国かヴュルッテンベルク公国どちらかの人だったのです。さらに、この州にあるカールスルーエという街など、州の名に反映されなかった街も、ひとつの公国であった場合が多々あり、カールスルーエの人はバーデンにもヴュルッテンベルクにも属しているとはよもや思っていない、というのです。

シュトゥットガルトの街にはバート・カンシュタットという地区があります。この地区は、バートとカンシュタットの2つの地区が統合された呼び名です。カンシュタットの歴史は古代ローマに遡ります。1世紀の終わりにはここに、古代ローマ城砦が作られました。写真はその城砦跡の現在の様子です。ここは高台になっていて、私が帰国前、最後にソリストとして出演した劇場もその高台にありました。

この地域に残る墓跡などから、ローマ時代にはここに初期アラマン族が定住していたことが確認されるそうです。アラマン族とはゲルマン民族の一つで、中ライン、ドナウ両河の上流域で形成された混成部族で、3世紀中ごろからローマと接触しつつ勢力を拡大し、フランク王国下では南ドイツ、北スイスにアラマン大公領を形成しました。つまり、シュトゥットガルトのカンシュタットという地区までが、北スイスと共通する民族アラマン族が定住した土地だったのです。ですからカンシュタットの人は当然、自分たちがシュトゥットガルト人だとは思っていませんし、バーデン公国でもないし、ヴュルッテンベルク公国とも元が違う、と思っているそうです。

このようにヨーロッパは人種のるつぼといいますが、ドイツという国ひとつ採っても、その州ひとつ採っても、さらには街ひとつ、その街の中の地区ひとつを採っても、その中にかつて色々な民族や公国があって、それが現在では行政上統合されている、ということが多々あります。

自分のアイデンティティをそのように歴史的な背景と結びつけて自覚できるのは幸せなことだなあ、と思います。

私がシュトゥットガルト留学中に、ドイツでの初舞台と締め括りの舞台を踏んだのは、偶然にも共に、このバート・カンシュタット地区にある2つの劇場でした。はじめのは、シュトゥットガルト国立音大が管理している19世紀からの劇場、終わりは、まさにそのローマ城砦跡の高台にある、国立歌劇場関連施設として新しく建てられた劇場でした。よく好んでお散歩にでかけたのもネッカー川沿いのこの地区でした。

ラテン系文化圏で幼い日を過ごしたことのある私は、ゲルマン系文化圏のドイツにはドイツリートを好むとはいえ、最初は多少、不慣れな感じを抱いていました。でも、出演の機会に恵まれ、また、それを機に親しみを感じてよくお散歩に出かけたこの地区が、常にローマに接しながら発展してきたアラマン民族の土地だったと知ると、不思議に納得がいき、嬉しくなります。思えば、以前に記事に書いたシュトゥットガルトのバッハ週間で、バッハのカンタータのソロをドイツで初めて歌ったのもこの地区の教会でした。不思議なものです。

そんなことを考えていると、幼い時にラテン語系文化圏の香りを多少なりとも吸って育ち、昨今はドイツリートの分野で学位をもらったりと、そういう私という存在の形成史そのものが、アルマン族に似ている気がしてきました。私が日本で音大を受験したころは、課題曲にイタリア歌曲かドイツ歌曲(つまりドイツリート)の2つのグループがありました。私はイタリア歌曲で受験しました。ですから今も童謡のように、廊下を歩きながら口をついて出てきたりします。イタリア古典歌曲はもとはオペラの中のアリアであった歌が殆どですので、自分の声で歌えるものは限られてくると思いますが、それらをオリジナルな形でご披露できる機会もあるといいな、と思っています。その前に腕に磨きをかけなければなりませんが・・・。