ジャン・パウルの威力

小説家ジャン・パウルの名前を私は、ずっと以前、シューマンの生涯について調べたりしていたときに知った。図書館で日本語訳を借りて読んでみたこともあった。不思議な支離滅裂な世界である。そう、ジャン・パウル(Jean Paul)はドイツ・ロマン派文学を代表する作家だ。(昨年、サッカーのワールドカップの折、勝敗の予言を的中させたと話題になった、ドイツの水族館の蛸パウル君と同じ名前である!)
 
ここのところ、サー(Sir)・ノリントンN響の演奏会でのマーラー交響曲第一番「巨人」が話題になっている。私はラジオ生放送で演奏を聴いたが、なかなかおもしろかった。
 
以前から録音で聞いたこともあったが、今回、改めて気にかかり、いろいろと身の回りの本を紐解いてみると、興味深いことに行き当たった。すでに周知のことであろうが、この交響曲のタイトル「巨人」とは、まさにそのジャン・パウルの小説「巨人 Titan」に端を発するというのだ。ロマン派の渦中の作曲家であったシューマンのみならず、後の世の、後期ロマン派とはいえ、すでに世紀末の退廃芸術にまで手の届くマーラーまでもが、若き日、このジャン・パウルの小説に熱をあげていたというのだから驚く。なるほど、ヨーロッパ芸術の精神的な支柱は、結構長いこと、ロマン派文学での「爆発」によるエネルギーに少なくとも一部分は因っていたのか、と認識を新たにしたところだ。
 
前に、ライプツィヒ関連の記事のところに、この街にゆかりの芸術家のことを書いた。養うべき家族を抱えて、2つの教会での仕事を掛け持ちして毎日徒歩で行き来していたというあの大バッハはもちろんのこと、ライプツィヒ大学に学ぶべく、故郷フランクフルトからやって来たゲーテ、この街でクラーラの父、ヴィークの元でピアノを学び、その後も評論活動、作曲等に勤しみ、新婚生活もここで送ったシューマン、その友人でライプツィヒ音楽院の創設者であるメンデルスゾーン、この街生まれのワーグナーなど。そしてマーラーも例にもれず、この街に縁があり、若き日、指揮のアシスタントとしてライプツィヒ歌劇場に2年弱の期間であるが職を得た。かの交響曲第一番「巨人」も、「巨人」のタイトルはブダペストでの初演の後、1893年ハンブルクで再演の際につけられたものと聞くが、作曲が完成を見たのは、このライプツィヒを去る年1888年3月29日のことであった。ライプツィヒは青年マーラーの、いわば、その後の活躍を繰り広げる広い海原への船出の街となったのである。この交響曲を聞けば、その意気込みたるや、爆発力を秘めた、非常に頼もしいものであることは誰の耳にも明らかだ。
 
そんなふうに、時を違えてライプツィヒの土を踏んでいたシューマンマーラーの間に、ジャン・パウルという別な共通項があったとは、私にも遅ればせながら、新たな発見であった。ラインとドナウの源流が非常に近いところから発しているのと同じように、ヨーロッパ文化の源流は遡ると共通の泉を秘めていることも少なくない。