世界市民~ゲーテの言葉~

イメージ 1東京ゲーテ記念館がある小道にはゲーテ通りと名前がつけられ、目印の表示が立っている。その袂には、ゲーテの文章が原語のドイツ語と日本語訳とで刻まれている。そこに「世界市民 Weltwohner」という単語を見つけて、何と時事的かことか、と思った次第である。そこには、「あらゆる地域、学派、流派の人々よ」という呼びかけがある。
 
今回の日本の大地震、大津波による災害と原子力発電所の不具合による被害はニュースですばやく全世界(少なくとも情報化社会に参入している国すべて)に知れ渡った。そして、各国から救援隊や機材までもが日本の窮状を救うために投入されてくる。感謝すべきことである。
 
同時に、特に、原子力発電所保有する各国は、この問題を共通する問題としてとらえ、反響が広がっている。ドイツでは、地方選挙で次々と原子力発電推進派が敗れ、政府、各州は原子力発電から離れる方向へ進まざるを得ない事態にまでなった。その他の国でも安全の見直しや今後の方向性について、いわば考え直すような時を迎えている。
 
こういうとき、ゲーテの言った「世界市民」という言葉がとても印象深く胸に迫ってくる。この3月11日以来、世界各国が共通の問題意識を持ち、考えることを始めた、ということだ。国による利害関係も国際的には実際に幾つもあるし、そう簡単なことではないが、しかしながら、今回の日本の災害と被害は、広く世界に共感と反響を起こして、それが各国での今後の現実的な政策にまで影響を及ぼし始めている。
 
そもそも原子力発電は、放射能を出す廃棄物をどこに置くのか、という点ひとつをとっても、長い目で人類の、地球の将来を思うと、実は、答えのないままに進んでいる危険なものである。人間は今、自分たちが生きている時代、さらには子供、孫の時代くらいまでは念頭に置いても、それより先々のことまでは考えることなく終わるのか、それとも、宇宙的な長い時間構想を念頭において、種々の政策を地球規模で取り決めてゆくこともできるのか。「世界市民」としての共感と実行は、この後者のレベルに人智が達したときに初めて生じるものであるような気がする。とすると、今は、その好機を迎えているのかもしれない。
 
ゲーテ閣下の言葉「世界市民」は、ゲーテの時代にどのような意味を持ったのか、私は専門家ではないので見識は浅いけれども、少なくとも、今の時代にこのようにひきつけて解釈することは可能である。やはりゲーテは見識の高い人であった、と思わずにはいられない。しかし、ゲーテはすでに過去の人である。今後の世界にバトンを渡すべく、現在の様々な課題に判断を下すのは、ほかでもない、今、生きている、私たちである。
 
芸術は、音楽は、国境を越える。共感できる、通じ合う心の存在を私たちに実感させてくれる大切なものである。それは確実に、世界のグローバルな意識と議論を可能にするきっかけになっている、と思う。