モーツァルトと「f分の1揺らぎ」

かつて私が心理学を専攻していた頃―といってもその頃、私の側に音楽がなかったわけではない。音楽は物心ついたときから常にいろいろな形で私と共にあった―、心理学や周辺の分野でしきりに「f分の1揺らぎ」というのが話題になり、いわば流行であった。ある学会を金魚の糞状態で見学させていただいた折も、それがテーマだった。ある学者さんの発表には、モーツァルトの音楽には「f分の1揺らぎ」が含まれている(検知できる)ことが多く、その音楽は、牛にも理解される、というものであった。これは三四郎池のある大学を会場にした学会だったと記憶しているが、すでに20年くらい前のことなので、詳細は定かには記憶していない。あくまでエピソードとしてお読みいただきたい。
 
さて、先の記事に書いたように、モーツァルトの音楽がチロリアン的性格を音楽、風土など様々な面から帯びているかもしれない、と仮に私は考えた。ところで、チロル、アルプス地方は牛の放牧地域であり、ガラン、ゴロンと鈍くも鳴り響くカウベルをつけた牛の姿は車窓からもたくさん目撃できるものである。そのような地域の風を幼い頃から何度となく吸って、自らの感性の土壌を育んだモーツァルトのことだから、その彼の作曲する音楽に牛が同調する何かがあるのは不思議なことではない。そこに科学的に「f分の1揺らぎ」という定数?のようなものが後から発見されたようなもので、そもそも彼の音楽が牛にもわかる、というのは実は何も驚くべきことでもないように思えてくる。
 
まさにモーツァルトは風雲児だったのだ。
 
音楽では、作曲においてだけではなく、演奏においても、風を聞き、雲を感じる、そんな自然を感受できる感性が不可欠だろう。今の世の中のように種々、あわただしく、街も騒々しい時代にあっては、そのような感性は、その人に許された感謝すべき幸運と、そしてかなり意識的な努力なしには、得られないかもしれない、と思ったりもする。でもいつの時代にも風雲児はつきものだ。これからもそんな存在が絶えることのないようにと私は願っている。