ライプツィヒからの天使さま

ライプツィヒのゲヴァントハウスから日本に遣わされてきた音楽の天使(ふつうおじさんには使わないけれど・・・)とでもいったらよいだろうか、ドイツの音楽の伝統を一身に浴びながら音楽生活を送って来られたボッセ氏が、ゲヴァントハウス定年後は縁あって日本に定住され、音楽活動、特に指揮活動に専念された。
 
今日、そのボッセ先生を追悼して発行されたCDが私の手元に届いた。感謝しつつ、思い出がよみがえってくる。 
 
94年から東京藝大の客員教授。私が演奏会でソリストとして芸大定期演奏会でご一緒させていただいたのは、96年メンデルスゾーンの「エリア」(寡婦役:普通はソプラノが歌うけれど、学内のオーディションの結果、メゾの私に当時この役が割り当てられた)だった。当時、私は初めて公の大きなホールの舞台(芸大の大きな奏楽堂はまだなかったから会場は池袋の東京芸術劇場)に立ち、その指揮がボッセ先生というドイツからの先生だったから、本当に緊張して臨んだものだったけれど、今思うと、それはまだボッセ先生の指揮者としての活動の前半期だったかもしれない。その後、さらにさらに充実、円熟への道を歩んでいかれたことをこのCDは如実に伝えてくれる。
 
このCDはベートーヴェン「運命」は2010年4月2、3日、シューベルトの「ロザムンデ」序曲とモーツァルトのシンフォニー39番は2011年5月13、14日のライヴ録音と書いてある。後者はあの震災の2ヵ月後か、と思う。計画停電など慣れないことが日常に起こり、いろいろ大変な時期でもあったことを思い出すのは、私のリサイタルもその一ヵ月後の6月にあってよく記憶しているからだ。そんなときに、こんなしっかりしたライヴ録音が残されているとは、指揮者にもオーケストラ(新日本フィルハーモニー)にも改めて感銘を受ける。そして、その前年の「運命」もタイトなまとまりのある、感動的な音楽だ。「演奏家にゴールはありません」というボッセ氏の言葉がCDの解説書内に紹介されていた。このCDはまさにそれを証明している。襟を正す思いで、聞き入る。
 
ボッセ先生とは私は数回しか言葉を交わしたことがないのに、思い出の語録はいろいろある。ちょっと書いてはいけないかな、というブラックユーモアが多く笑ってしまうが、まじめな部類では、その演奏会のソリストたちでお宅にうかがって、事前のピアノ伴奏での打ち合せ練習の折、私は自分の役のところを一通り歌い、たぶん、途中何か注意を受けて、もう一度くらい歌っただろうか。そして、はい結構!となった。私は、えっ?もういいんですか、もう一回やらなくてよいのですか?と驚いた。すると先生は一言、「私は出来ていることを繰り返す気はありません」とのこと―。もちろん当時から奥様の美智子さんがレッスンにもつきっきりで、私たちのために通訳もして下さっていた。
 
その数年後、私がフィッシャー=ディースカウさんの夏休みのマスタークラスに申し込んで、ドイツ行きを楽しみにしていた矢先、フィッシャー=ディースカウ氏が足の複雑骨折でクラスがキャンセルとなった。それでもドイツ行きは実行した私は、旅立ちの前に、芸大の学食キャッスルで、ボッセ先生と美智子夫人とお昼をご一緒させていただきながら、ライプツィヒの歩き方など、ご助言いただいた。(トーマス教会とニコライ教会の間をかつてバッハは徒歩で行き来して、二つの教会の礼拝を掛け持ちしていたんですから、ライプツィヒの街は余裕で徒歩で観光できますよ、というようなお話も面白く、印象に残っている。)そのときに、フィッシャー=ディースカウさんが足を骨折されたためにクラスが中止になってしまったのです、とお話すると、「あ~、アイツはだいたい足が長すぎるんだよ」と。数年後、今度は長期留学でドイツにいたとき、実際に生で舞台上で朗読をしているフィッシャー=ディースカウ氏を見て、ああ、本当にそうだ、確かに、足が長い、と確認できた。もっと面白いのは、もっと最近になってから、久しぶりで演奏会の客席ロビーでお会いできたとき、あのときの「寡婦」です!、とメンデルスゾーンのときの役名で名乗ったら、「あ~、あれから、何回、結婚できました??」と目をクリリと丸くされて、茶目っ気たっぷりの表情で仰るではありませんか。ユーモアですねえ、そうです、「寡婦」だったのですから、再婚の機会があったでしょう?(ひょっとすると複数回?!)、というわけです。そもそもメンデルスゾーン「エリア」の最初のソリスト稽古で、「寡婦」役の・・です!、と初めて芸大でレッスン室をお訪ねした折に、「随分、若い寡婦が来たね・・・」と側に座っていらした奥様に楽しそうに耳打ちされたのでした。(それを奥様がご丁寧に私にも訳して下さいました。)ほかにもまだ語録はあるのですが、あまりお喋りすると怒られそうですから、やめておきましょう(笑)。
 
今思えば、私が音楽を専門に志すようになってから初めて直接に出会い、習い(演奏会前の数回のリハーサルのこと)、共演したドイツ人の音楽家はボッセ先生でした。そういう貴重な機会~天使様との出会い~があったからこそ、背中を押してもらったかのように、その後の私の歩みもあったのだろう、と心から思います。不思議な導き、ご縁に感謝あるのみです。そして、今日、このCDを聞きながら、今後の歩みへの勇気とエネルギーをいただきました。
 
ボッセ先生、天国でどうぞ安らかに!