ベッティーナ・フォン・アルニムのこと

ドイツ文学の歴史に名を連ねる一人の健気な女性がいる。ベートーヴェンゲーテの母、そしてゲーテ本人とも親交があり、後には娘を連れてデュッセルドルフシューマン家を訪れたりしていたベッティーナ・フォン・アルニム(1785-1859)だ。
 
ドイツ文学で後期ロマン主義に分類される、有名なドイツ民謡集『子供の魔法の角笛』(1806-8)を編集したのはブレンターノとアルニムであったが、彼女はそのブレンターノの妹で、このアルニムと結婚した女性である。その頃、ナポレオン支配による圧迫という政治的情勢のなか、アルニムとブレンターノが中心になって、古都ハイデルベルクにはロマン派詩人が集った。彼らはドイツの自然と歴史への愛情に基づき、ドイツの民族意識を呼び覚ました。ここに収められた詩はマーラーの歌曲や、その他、シューマンや他のロマン派作曲家によってもしばしば歌詞として取り上げられている。そんな土壌の中から出た女流(という言い方は今や、あまりしないくなったが)文学者がベッティーナだ。
 
私がワイマールに滞在したとき、書店で『ゲーテとシラーの往復書簡(1794年~1805年)』という本を購入したが、そのとき、すぐ側に、ベッティーナ・フォン・アルニムの『ゲーテとある子供との往復書簡』という本があり、その存在を私は知ったのだった。そのとき、私はこの本も欲しかったが、その後の旅の荷物を最小限にとどめるため、購入しなかった。それにしても、さすがはワイマールというドイツ文化都市のこと、このように書店には、ゆかりのある書籍はきちんと揃えられていた。こうして訪れた町の書店で、その街の歴史に触れる書物を入手して、バカンスを過ごすなど、なんと贅沢で素敵な時間だろう。
 
ワイマールはゲーテ閣下の暮らした街。ベッティーナは22歳でゲーテと出会い、書簡を交わし、それに肉付けし形で、1835年に上記の本として発表したといわれている。
 
さて、このベッティーナは1810年、25歳のとき、当時、ウィーンに定着して、劇音楽「エグモント」などの作曲に取り組んでいた時期のベートーヴェンを訪ねている。これに刺激されたかのように、この年にベートーヴェンは「ゲーテの詩による3つの歌曲」op.83を春、夏に作曲している。すでにその前年にも「ミニョン」や「新しい愛、新しい生命」(第2版)なども手がけていて、ゲーテの詩にちょうどベートーヴェンが集中して興味を寄せていた時期であったようだ。これらの歌曲はどれもとても充実した仕上がりの名曲である。
 
ベッティーナの先の兄とは別の兄フランツ・ブレンターノは、ウィーンの旧家の女性アントーニエを妻としていて、このとき、妻アントーニエの父が亡くなったこともあってウィーンに住んでいた。当然、ベートーヴェンはこの夫妻とも親交を持つこととなり、特に、病気がちだったアントーニエには隣室からピアノを演奏してなぐさめるなど、思いを寄せたという。殆ど女性に出会う度に真剣に恋心を抱いたベートーヴェンの、とてもデリケート、繊細な心を思う。
 
さて、このベッティーナはそれから20年後、45歳になった1830年以来、シューマン夫妻と親交を得て、さらに68歳になった1853年10月28日から30日には娘を連れてデュッセルドルフシューマン家を訪れていた。1853年10月28日といえば、シューマンがかの有名な、ブラームスを世に送り出した記事「新しい道 Neuebahnen」を発表した日であった。そして、シューマンはこのベッティーナを、10月15日から18日にかけて作曲した事実上の最後の作品《暁の歌》(ピアノ曲)の献辞先とした。
 
翌年、1854年の2月にシューマンライン河への投身行為があり、ボンの郊外のエンデニヒにある療養所に収容されて、余生を送ったことは周知の事実であるが、このベッティーナも1855年5月にエンデニヒのシューマンに面会を果たしている。それに対して、シューマンの現存する最後の手紙といわれる6月3日付けのベッティーナ宛の書簡には、末尾に「僕のクラーラが弾く《暁の歌》を聴いていただけると嬉しいです。クラーラがあなたにもお送りするでしょう。」と書いている。初版はこの年の11月に出版され、翌年7月にはシューマンは他界した。
 
こうして世の中を、あるときは横糸、あるときは縦糸となって、重要な文学者の親族でありつつ、他の文学者、文化人、音楽家たちと親交を結んだ彼女の足跡を辿ってみると、文学史音楽史がとても生きたものとして、私たちの目の前に蘇ってくる。
 
そもそも、ゲーテベートーヴェンはともかくとして、そこからシューマンまでが、一人の人生で出会える程度の、ごく近い時間枠内の存在であった、ということは、私には新鮮な驚きであった。