『サムソンとダリラ』考

サン=サーンスのオペラ『サムソンとダリラ』には、誰でも知っているようなお馴染みのメロディーがある。ダリラのアリア「あなたの声に私の心は開く」である。音楽家ではない日本のご年配の方でも、この曲は、トマのオペラ『ミニョン』の「君よ知るや南の国(オレンジの花咲く国)」と同じように、昔、歌ったことがある、と仰る方も少なくない。
 
クラシック音楽にも、いつだったかCMでお茶の間にもお馴染みになったようなヘンデルのオンブラ・マイ・フや、メサイアハレルヤ・コーラス、のようなヒット曲が出るものだ。今の朝ドラ「あまちゃん」の冒頭の、朝に元気が出そうなテーマソングも、当たったようである。
 
そんな話はともかくとして、オペラ『サムソンとダリラ』(サムソンとデリラと言われれるこも多いのは、Dalilaを英語読みするためだろうか?ヨーロッパ言語の感覚から読む場合には、ダリラと読むほうが順当だと思われる。)の題材は旧約聖書から取られている。舞台は当時のペリシテ人たちの(現代でいうパレスチナの)ガザ。士師記第16章4節からこのダリラという女性が登場する。(この和訳聖書でもデリラとなっているのは、英訳聖書からの翻訳であるためだろうと推測される。)ところで、この第16章1節から3節には、サムソンがガザの遊女のところへ入って行ったところを、ガザの人々が朝まで待ち伏せして、出てきた彼を殺そうと企んだが、サムソンは夜中に起きだして、門を怪力で開けて、出て行った、という内容が書かれている。これに続くのが第4節で、「この後、サムソンはソレクの谷にいるデリラという女性を愛した。」と記されている。ダリラがどんな身分の女性であったのか記述はなく、ここに至る先の節の内容に続いていることからすると、ダリラも遊女の一人だったように推測される。英雄色を好む・・・。
 
さて、サムソン打倒を狙うペリシテ人たちは、彼を説き伏せて、彼の大力の秘密を聞き出し、彼を捕らえ、打ち負かすことが出来れば、銀貨をさしあげよう、とダリラを買収する。そして、サムソンとダリラの対話が続いていく。何度も偽りの答えをするサムソンに、ダリラは、「あなたの心が私を離れているのに、どうして『お前を愛する』と言うことができますか。あなたはすでに三度も私を欺き、あなたの大力がどこにあるかをわたしに告げませんでした。」と迫る。そして、苦しんだサムソンはついに、髪を剃り落とされたなら、自分の力は去って弱くなる、とダリラに明かしてしまうのである。
 
こうして弱みをつかんだダリラは、ペリシテ人たちを呼び、自分の膝の上でサムソンが眠っている間に、髪の毛を剃らせてしまう。サムソンは実際に力を失って、ペリシテ人たちに捉えられると、両眼をえぐられ、ガザに連れて行かれて青銅の足かせをつけ、投獄されてしまった。
 
オペラでは、この盲目になって、投獄されているシーンから第3幕が始まる。その前の、ダリラとのやり取りのうち、最後の最後で、弱みを打ち明けてしまうシーンの台詞はオペラにはない。あの陶酔的なアリア「あなたの声に私の心は開く」は、サムソンがダリラに「愛している je t'aime!」と言った直後に、ダリラが歌いだす歌で、アリア終盤はサムソンが唱和して二重唱となるが、最後までダリラに「愛しています je t'aime」というセリフ(歌詞)はない。これはこのオペラを通して一貫した特徴である。ダリラは買収されて、サムソンを自分の魅力で誘惑し、秘密を聞き出そうという、したたかな目的に専念している女性なのである。何と恐ろしいことか・・・笑・・・
 
このアリアの後、第2幕の幕切れに向かって、ダリラとサムソンの激しいやり取りが続く。ダリラは、やはりあなたは私を愛していない、秘密を教えてくれなければ、と迫り、サムソンは自分の神への誓いとダリラの魅力との間で苦しむ。最後に怒って家に入りバタンと戸を閉めてしまうダリラを、サムソンは後奏鳴り響く中、ダリラを追って家の中へと飛び込んで行く、そしてオーケストラの激しい嵐の音楽で第2幕は幕を閉じるのである。
 
次の第3幕幕開けでは先に書いた通り、すでにサムソンは盲目となり、投獄されているので、その間の成り行きは、すべてその後奏と、幕間の転換の間の暗黙の時間空間の中に封印されているわけである。
 
作曲された当時、聖書の内容を扱ったこのオペラはパリでは支持を得ることが出来ず、初演は、新作の発表に力を入れていて理解のあったワイマールの元宮廷楽長リストの尽力により、ワイマールでドイツ語版によりなされた。(指揮はリストの後継者。)そのくらいだから、聖書の中の偉人の一人であるサムソンに、ある意味で、不名誉な成り行きを含む題材を扱うにあたって、決定的な部分は、サン=サーンスや台本作家が台本から省いて構成したのだろうか?
 
しかし、ナポレオンのよろめき(トランプゲームに出てくる言葉、ジョゼフィーヌにはナポレオンも弱かった、ということ)と同様、ダリラの艶によろめいたサムソンであるが、剃られた髪は牢獄でまた日に日に伸びたのであって、ついには、ペリシテ人たちの集まった家を支えている柱を両手に抱えると、回復した怪力でこれを破壊、自らの命もろともに多数のペリシテ人たちを滅ぼした。士師記の第16章は、「サムソンがイスラエルをさばいたのは20年であった。」という一文で終わっている。
 
「愛しています je t'aime」と決して言わずに、私を愛しているなら秘密を明かして、そうでなければダメ!、とひたすら迫り、誘惑するダリラと、「あなたが愛していなくても、私はあなたを愛するわ!(ハバネラの歌詞より)」と歌い、言い放つカルメンと、果たしてどちらが悪女?
 
このオペラは、地中海東岸のエキゾチックな風に満ちている。