ケルトの文化

シュトゥットガルトから北へ向かうSバーンに乗って5駅目で、お城のあるルートヴィヒスブルクに着く。(先の記事のアスペルクはその一つ先だ。)ルートヴィヒスブルクのバロック建築のお城の広場に開かれるクリスマス・マーケットは有名で、ユスティーヌス・ケルナーやメーリケ生誕の地としても、以前にこのブログで紹介してきた。 
 
ところで、私がシュトゥットガルトでの留学生活を終えて帰国しようというとき、出発の2、3日前だったと記憶しているが、あるドイツ人ご夫妻がルートヴィヒスブルクにあるご自宅にお招き下さったことがあった。このご夫妻は当地の音大のリートクラスの聴講生にもなられて、私の留学中、しばしばレッスンを見学にいらしていて、演奏会にも度々聞きにいらして下さっていた。私がいよいよ日本へ帰るというので、特別にお招き下さったのだと思う。
 
お宅についてみると、ひと組のご夫妻がいらしていた。紹介されてみると、ご近所さんで旦那さん同士は、学校時代以来の地元のご学友とのこと。奥さんはスコットランドの方。そして、このご学友の旦那さんのほうは、かつて日本の熊本の大学に3年ほど教えにいらしていた、という。ラフカディオ・ハーン小泉八雲)のご研究をされたそうだ。あえて古い民家に住まわせてもらって、日本の風情を楽しまれたそうだ。冬は木炭を入れた行火も使われたとか。お話に花が咲いた。
 
このお宅でまず驚いたのは、お招き下さったご夫妻の手料理。というかその配分。つまり、手作りピザや皆で切り分けて頂くような大きな立派なケーキは旦那さんの作。サラダのみ奥さんの作だったということ。日本ではなかなかないパターンだ(笑)。スコットランド出身のゲストのお奥さまも、スコットランドでは紅茶でも何でも食品の重さはグラムではなくポンドで測るので、お料理の分量などをグラムで聞いても、なかなかピンと来ないのよ、と異文化体験を物語っておられた。ドイツにあっては、日本からの私と同じく外国人、ということだ。
 
この賑やかな昼食後は、近くに面白い博物館がある、というので、車に分乗して皆で出かける。ちょうどルートヴィヒスブルクやアスペルクから西へ10キロほど街道を走らせたホーエンドルフという場所に、ケルトの遺跡があり、そこが博物館となっているのだった。ケルト文化はヨーロッパのあちこちに根を下ろしている。スコットランドもかつてはケルトだったのだ、とその奥様も話しておられた。
 
ケルトとは、今のヨーロッパ諸国の諸民族、つまりイタリア、フランス、イギリス、スペインなどが出来るずっと以前に、大陸に分布していたいわば先住民の総称である。歴史と共に新たな民族に征服されるなどして、現在のヨーロッパ諸民族に分化していった。
 
この場所には、紀元前550年から紀元前400年くらいまでの間に形成されたと見られるケルトの大きな古墳があって、その中、つまり、事実上の地下に相当する空間には、死者がそのまま生きて生活できるような空間が設けられていた。その様子をそのままその場所に見られるように再現してある博物館である。地上の盛土は取り払われて、代わりに緩やかなカーブを再現する大きな弓なりのものが、地上にモニュメントのように設置されている。(また、近隣には、実際の古墳の丘を再現するものが、大量の土と石で再現されている、ということだ。)先の牢獄のアスペルクの丘の近くにも、この時代の古墳があるそうだ。外には藁葺き屋根の民家の再現もあった。日本の縄文・弥生時代のようだなあ、とそんな風景を見て思った。
 
ドイツ留学を終えて、いよいよ日本に帰ろうという私に、最後の最後に、このドイツ人ご夫妻はこんな遺跡を見せて下さった。音楽とは無関係、しかし、ヨーロッパの長い歴史を思った。また遺跡には、古今東西、共通性があるとも思った。
 
聖書では、天国に達するべくバベルの塔の建設を企てた人間を、神様が傲慢と思って、それまで共通の言語で話していた人間に、バラバラな言語を話すように分化された、とされている。それは聖書でのお話としても、広い地球上に、文化が違っても同じだ、と思えることは沢山あり、別々な言葉を話しているのが不思議なくらいだ。
 
歴史探訪となったこのルートヴィヒスブルク訪問。この後は、ご夫妻宅に戻り、ロウソクを灯して夕暮れ時のティータイムとなった。ドイツに行っていたのかどうなのか、わからなくなるほど古い時代へのタイムスリップを経て、私は2年半のドイツ留学を終え帰国した。
 
思い出すにつけ、その時々に出会った方々から頂いたご厚意に感謝の念が込み上げてくる。それは留学中に限られたことではないが、つたないながら私の歌、芸術への思いは、そんなご厚意に支えられ、今日まで育まれてきたことを記しておきたいと思った。