日本画家、鈴木皐雲 (1900~1948) のこと

私の母方の祖父は日本画の画家で、雅号を鈴木皐雲(すずき・こううん)といった。気質の穏かな静かな人だったが、47歳のとき脳溢血で倒れ、その日のうちに亡くなったそうだ。だから私は祖父に会ったことがない。祖母の家には羽織袴姿の祖父の写真がいつも飾られていた。いつも和装だったそうだ。

袋田の滝で知られる茨城県の奥久慈地方に生まれ、幼少より絵を描いていたが、青年時に東京に出た。「青年画伯鈴木皐雲氏」と題された当時の記事には、日本美術学院の日本書科を大正6年5月に優秀の成績をもって卒業、明治天皇の叡覧の栄、宮中進献の寵を得、また増上寺飛雲閣に壁書を描き、同天井に雲龍を描き、両国回向院書院に白沙青松を描し、さらに、いろいろな博覧会の審査員に推薦されたが辞退し続けて無畏の境地を云々、といったことが続く。その後、鷹田其石の門人となった、とも書いてある。私は、以前に芝の増上寺に行ってみたけれど、飛雲閣はもう新しくなっていて祖父の天井画は見られなかった。両国の回向院にはまだ行った事がない。

その後、祖父は茨城に戻って水戸市に住み、茶道教室をしていた私の祖母と結婚した。祖母は一人目の夫に死別していて、その子供もあった。祖父は養子縁組の形で祖母と結婚し、祖母の前夫の姓を継いで、その家の父親となった。これにより、戸籍上は「鈴木」の姓ではなくなった。しかし、絵は「鈴木皐雲」の名で描き続けた。私の母は、この祖父と祖母の間に新たに生まれた子供である。

祖父は、もし自分が世を去ったときには、雅号である「鈴木皐雲」の名で碑を建てて欲しい、と言っていたそうだ。だから今も一家の墓地区画内に、鈴木皐雲の名を彫った碑が建っている。いつだったかお墓参りの折に、祖母は私の前で「おばあちゃんは、どっちに入ろうかな、こっちかな」とこの碑のほうを指さしながらつぶやいた。典型的な「明治の女」で、頑強なイメージの祖母だったが、そんな祖母の優しい茶目っ気も私は好きだった。

祖父の絵は、注文を受けて描いていたから、完成すると注文主に引き取られて行った。だから家には絵があまり残らなかった。でも、祖母が茶道を教えていたときは、床の間や茶室に祖父の大小さまざまな絵が交代でいつも飾られていたから、そんなものを通して、私は祖父の芸術の香りに触れた。

今も、あちこちのよそ様のお宅に祖父の絵があるという。数年前、祖父の故郷の茨城県大子町で、先代が祖父と親しかったという表具家さんが、先代の遺言だったとのことで、祖父の遺作展を開いて下さった。そのとき方々から祖父の作品が集められた。その遺作展で私は初めて祖父のたくさんの作品に触れて驚いた。額に入った絵ばかりでなく、掛け物や屏風絵などもあった。展覧会の後、それらはまた持ち主のもとに帰っていったはずだ。私の手元にはそのときの図版入りの小さな目録がある。これらの作品がすべて、どこかのお宅で、インテリアの一部になって愛されているのだ。そんなものが少しは私のところにあってもいいのになあ、と思わないでもなかったが、考えてみるとわが家は猫の飛び交う猫屋敷で、絵の保存のためにはよくないから、やはりこれでよいのだろう。実は祖父も猫が好きで、誰も入れない絵を描く部屋に、なぜか天井から猫のために遊ぶ紐をぶらさげて、猫はお出入り自由だったそうだ。そんな猫派ぶりは母も私もしっかり受け継いでいる。

西洋の音楽を学び、留学し、舞台に立ち、こうして楽しく思い出を振り返ったり、さらなる舞台に向けて稽古に励んだりしているけれど、ふと、日本の伝統的な芸術に携わっていた祖父の事を書いてみたい、と思った。そして、90歳まで現役で長く茶道と華道に携わってきた祖母は、今年99歳になった。